寝てる間に


 目が覚めた時、目線は殆ど暗闇で支配されていた。ここはどこだろうと状態を上げると僅かな月明かりに次第に目が慣れてきた。消毒液の臭いが鼻を突き、ここは病院かと一瞬思うが違った。ここは学校の保健室だ。確か朝の集会で倒れてそのまま……。まったく、夜まで放っておく事はないだろう。いくらなんでも今の今まで誰も気付かなかったのか。
 ベッドから降りると寝すぎたのか背骨が痛んだ。皺だらけのシャツを脱ぐと月明かりの入る窓を覗いた。異様なほど静かで明かりがひとつも無い。
 一眠りしている間に停電でもしたのか? その割には電気の代わりになる明かりも無い。そもそもこんな小さな島が停電を経験した事があるのだろうか。少なくとも僕はブレーカーが落ちた程度しか経験した事が無い。焚き火なんて風流なものももちろん皆無だ。
 電源の落ちた携帯電話が机の上に置いてあった。電源を入れると暗闇の中で酷く眩しい光が目を貫く。時刻は……午前8時22分。なんの冗談だか知らないが圏外だ。電波が入らず今の時刻も分からない。これじゃあ電話もメールも使えない。いくらなんでも酷い状況だ。こんな本土離れた島じゃ近代文明の恩恵にも与れないのか。
 カバンはまだ教室にあるだろう。財布はポケットにあるが自分のものをそのままにするのは気が進まない。シューズはどこかに行ってしまったがとりあえずはありもののスリッパでごまかそう。
 ぺたん、ぺたんと病院の中の音がする。歩きづらい。体に消毒液の臭いが染み付いてまるで本当の病院だ。夜になると学校はまったく別のものに見え、自分の教室がどこだか分からなくなる。保健室からそう遠くはないはずだが、階段をひとつ登らなければならない。教室にはもちろん誰もいなかった。窓から射す光に机が幾何学的な影を作っている。随分と散らかっている。祭りでもあったようだ。ぺたん、ぺたん、頼りない足音。
 カバンを手にするとストラップにしていた腕時計を左手首にした。すでに日付が変わり丑三つ時と来た。なんともシュールな冗談だ。こいつは早く帰らないと大目玉を食らう。こんな遊ぶ場所も無い島で今まで何をしていた、と。
 トートバックのカバンの中には雑誌と文房具一式。大したものは入ってないがカバン自体はなかなかのお気に入りだ。とりあえずこれで事は済んだ。帰ろう。明るい教室から廊下に出るとまたぺたぺたと足音がした。いや、それに何か音が混じった。足音だ。シューズの足音。そう近くは無いが、遠くも無い。声を出して話をしたかったが、何故かその気はしなかった。
 階段を下りてシューズボックスを開けるとシューズと靴が両方入っていた。スリッパはとりあえず放っておいて靴を履く。するとまた足音がした。近い。シューズ特有のゴムを引っ張る音が目の前のシューズボックスの裏から聞こえてくる。喉の奥がむず痒い。言葉を出すか出すまいか、頭と体の両方が葛藤しているようだ。
 だがその音はそれに構わず迫ってくる。ずり、ずり。引きずるような足音。僕は動けず、それが影から姿を現すのをじっと待っていた。
 ゆっくりと影が質量を増した。月明かりの届かないそこから、黒い塊が姿を現す。人の形なのは分かった。だが、その黒に塗りつぶされたシルエットの内側まで人とは限らない。脳裏には人の形をしたとかげの姿が浮かび上がっていた。しかし月明かりに照らされたのは紛れもなく人であった。緊張の糸が切れ、溜息を吐く。
「おいおい、脅かすなよ」
 返事は無い。しかしゆっくりと妙な姿勢で向かってくる。その顔には見覚えがあった。間違えるはずも無い右頬の大きなほくろの女だ。話した事はないがほくろのせいで付き合いが苦手だというのは分かる。
「ああ、1組の井上だよな。偶然だなこんな時間に」
 返事は無い。まだ無言で近づいてくる。いい加減気味が悪くなってきた。
「なんか言えよ、なあ」
 井上はああと言った。呻いたというほうがしっくりきそうな低い声で。こいつ井上か? 一歩、そいつに近づいたのとほぼ同時だった。井上が俺に跳びかかった。冗談とは思えない力にそのまま押し倒された。ガチガチと歯を鳴らす口が顔の前にまで迫っている。畜生、なんだこの臭いは。巴投げのように井上の腹を蹴り上げた。しかしシャツを掴んだ手を離さない。僕は叫びながら井上を何度も蹴り上げ、ようやく自由になるとすぐに逃げ出した。校門で振り返るとまだ追いかけてこようとする井上の姿が見えた。あれだけ蹴って立てるのか。本当に狂っちまってるのか。
 早足で自宅に向かっていく。道路は倒れたスクーターや事故った車がいくつも目に入った。車の中やフロントガラスは血で濡れていたが死体も怪我人も乗っていない。辺りは静かなまま恐らくバッテリーの上がっているその車はフロントに僅かな明かりを残した状態で完全に停止していた。
 べたり、べたり、足音。また井上だ。今まで女に追いかけられた経験なんて無いがここまで嫌なものだとは夢にも思わなかった。幸いなのは動きが遅い事だ。走ってこられたらとても生きた心地はしないだろう。実際殺されかけた。車のライトに右腕にかけていたワイシャツが赤く塗れている事が分かった。井上か。もう一度追いかけてくる者を振り返る。そしてそのワイシャツを捨てた。
 あれから随分と歩いた。相変わらず背中には井上がいる。もうしばらくすれば自宅に着くが、あの様子では自宅に着いたところでなんの解決にもならないだろう。それこそ殺すか縛るかしない限り。
 悪い夢なら覚めてくれ。そうは思うが夢ではないと言いたげに打ち付けた背中が痛んだ。
 ぱきりと枝が折れる音がした。振り返ると相変わらず井上がゴムを引きずって追いかけてきている。駄目だ、嫌に静かなせいで音に過敏になってやがる。カバンに手を突っ込みウォークマンを手にするが、まさかこんな状況で貴重な聴覚にふたをするのも危険に塩を振るようなものだ。しばし手に持ったそれを観察してカバンに戻そうとした、がコードが引っかかりそのままコンクリートの上に落ちてしまった。それが引き金になった。
 気味の悪い咆哮があちこちで上がった。それは人間の悲鳴にも怒号にも似ていた。僕はその咆哮を恐怖よりもどちらかと言えば飽きれながら聞いていた。つまりは、やっちまったって事だ。
 唸りながらあちこちから妙な連中が沸き出てきた。どれもこれも見た顔。当然だ。総人口225人の島、全員が知り合いだ。
 ゆっくりと、しかし僕から退路を奪うように全方向から現れる。まずいな。50人は確実にいる。それも確実に頭がやられちまった奴らが。さすがにこれだけ数が揃うと逃げられるものも逃げられない。
「おい、なんなんだよお前ら。冗談なら参った。十分ビビッたよ。あんたらの勝ちだ。だから勘弁してくれ」
 返事に連中が唸った。どうやら話をする気も無いらしい。
「くたばれクソッタレ」
 映画で悪役の下っ端あたりが口にしそうな捨て台詞を吐きながらすぐ近くの民家に逃げ出した。やはりみんな動きが遅い。これならなんとか逃げられるかも知れない。しかしここは島だ。逃げると言ってもどこへ逃げれば良いって言うんだ。
 鍵はかかってなかった。家に入ってすぐに鍵をかける。だが安全とは言えない。声を殺して暗い室内を歩き回る。ここは島田さんの家か。入る前は分からなかったが写真が飾ってあった。この島で1番のじいさんだ。そのくせ体力はそこらの中年よりもあるスポーツマンで毎朝ジョギングしている。島田さんもあの連中の仲間になってしまったのだろうか。考えても仕方ない。今は自分の事だけで精一杯だ。
 この家のあちこちから叩く音がしてくる。やつらか。ここは安全なんかじゃない。むしろ袋の中のネズミになっちまった。裏口なら何とかなるかも知れないし、ならないかもしれない。我ながら頭の回らなさに腹が立つ。
「あつっ!」
 思わず大声を出してしまった。足になにかがぶつかって酷く痛い。足元はほとんど見えないため、ポケットから携帯を取り出してそのライトを当てた。鉄アレイだ。それもなかなか本格的な装着式だ。両方に5キロと刻印された銀色の錘がついている。総重量は全部で11キロか。持ってみるとやはり重い。こんなものを毎日振り回せばそりゃ体力もつくだろう。
 ぞくりと背中に電気が走る。背後に気配を感じた。振り向くと案の定、暗闇の中で黒いものが動いていた。
「誰だ? あんたまともか?」
 そうじゃない事くらい分かっていた。しかし僅かな希望は持ちたい。人間なら当然だろう。だがそいつの呻き声が簡単にその希望を打ち砕く。そいつは島田さんだった。顔の肉を失い、井上よりも幾分か人間離れした姿をしている。僕の事を生気の無い目で見つめ、近づいてきた。年のせいだろう、動きは遅い。こんなになってしまえば鍛えても無駄なのか。その場は歩いてやり過ごし、台所から裏口へ出た。
 幸いそこにいた相手はひとり、また井上だ。もううんざりだ。そう思った時、もう躊躇わなかった。鉄アレイを持った右腕を井上の頭部目がけ叩き込んだ。井上の頭は生卵のように砕け、中から色んなものを吐き出した。脆いものだ。素直な感想だった。散らばっているものから目をそむけ、今度は見つからないように慎重に進む事にした。しばらくはこの家にいると勘違いしてくれていると淡い期待をしながら。
 血まみれの右腕と鉄アレイが引き寄せたのか、連中はすぐに集まってきた。初めは散らばっていたのが2、3人。それが今じゃ両手じゃ足りない。いっその事全部鉄アレイで潰してしまおうかと思うが、無謀だ。いくら動きが遅くてもあの数に取り囲まれてまともに動けるはずもない。結局できるのは逃げる事だった。
 腕時計を除いてみるとまだ3時前だった。こんな終わりの見えない鬼ごっこに何の意味がある。この様子じゃ島全体がこうなんだろう。生きるにはこの島から脱出しなければ。しかしこの島には定期的に船が来る以外には漁船程度しか本土との移動手段が無い。運良く漁船が手に入ったところで船の運転などした事も教わった事も無い。無事に本土に辿り着けるかと言えばそれは難しいだろう。
 遠くから待ち望んだ文明の音がした。車のエンジン音に排気音だ。近づいてくる。誰かが運転しているんだ。
「おーい!」
 まだ姿も見せない車に向かって声を張り上げた。連中と違うってところを見せなければ轢かれてしまいかねない。
「俺はイカレてねぇーぞー!」
 久しぶりの大声に顎が痛んだが気にしてられない。大声に反応したように連中の歩調も早くなったように感じたが、これも気にしてられない。今大事なのは車に乗っている仲間だ。もしかしたら脱出計画のようなものが進んでいるかもしれない。
「生きてるぞー! 止まれ止まれー!」
 左手を振りつつ、次第に近づいてくるふたつの光を待った。それは軽トラックだった。荷台には何も詰まれていない。連中を轢いたのか、白く塗装された車体はあちこちが赤く血塗られていた。そのトラックは右ウィンカーを上げながらパッシングした。よし、まともな人間だ。安堵と共にその軽トラックに駆け寄った。
「お前まともか?」
 軽トラックの中からそんな声が聞こえてきた。若い、というよりも聞き覚えのある声だった。
「池上か?」
 そう聞き返すとウィンドウから顔を出したのは確かに池上だった。僕の顔を見て随分と驚いた様子だった。まともだと分かって速度を落としてくれたところですかさず乗り込んだ。邪魔になるので名残惜しいが鉄アレイとはここでお別れた。重い音が闇に響いた。
「お前か? 俺ぁもうてっきり真っ先にやられた思ったぜ」
 池上は慣れない様子で運転しながらそんな失礼なことを言った。こいつは運転免許を持っていない。そんな事ぐらい分かる。そもそも17歳じゃ免許は取れない。それに今聞きたいのはそんなことじゃなかった。
「一体なにがどうなってんだ。保健室で目ぇ覚ましてからずっとこんな調子なんだよ。わけわかんないんだよ」
 だが僕はその割には冷静だなと心の中で嘲笑する。だが池上にそんな余裕は無かったようだ。
「まったく、何も知らねぇんなら一等幸せだ、お前はよ。ありゃ朝の集会ン時だ。今でもしっかり覚えてる」
 池上はまるで腹いせのように連中のひとりを轢きながら話始めた。
「そうだったな。お前は貧血かなんかで倒れた。そいつを委員長と井上が保健室に連れてった。校長の糞だりぃ話は誰も聞いちゃいなかったよ。みんなお前を見てた。夏だってのに蝉も鳴かねぇ妙に涼しい朝だった。気ぃ抜きゃ立ったまま眠れそうだった。そいつをお前は倒れやがった。器用なやつだ。だがよ、こっちはおかげで地獄だった」
 思い出していることを順序立てずに話していた。おかげでなんとなく僕の中でもイメージができてきた。そう、僕が倒れたのは遅刻しそうだったからなにも食べなかったからで、その日はいやに涼しかった。
「校庭に誰かが入ってきた。小学部のガキだった。確かほのかとか女子は言ってたな。遅刻してきたのか知らねぇけどそいつがどんどん集会の集まりに寄ってくる。それでも大半の連中は気にもとめなかった。集会に参加させようってのか先生連中も何もしなかったのさ。そしてそいつは一番後ろの鈴木を捕まえた。鈴木は倒れこんだ。一瞬何が起こったのか分からなかった。なにかの冗談か、そんな程度だったよ。だがよ、違った。次に鈴木が立ちあがったときにはそいつの仲間になってた! 分かるか!? その後のことが想像できるか!?」
「落ち着けよ」
「うるせぇ。集会でほとんど固まった状態の俺らはどんなことになってんのかも知らねぇでそいつらに近寄った。そしてまたそいつらも倒れた。俺にはそいつらが噛みつかれたのが見えたよ。いや、噛みついたなんて甘ぇもんじゃねぇ。ありゃ食ったんだ! 顔面の肉をばりばりってな! そして今度はそいつらも立ちあがるんだ! しばらくした時にはもう誰が誰かなんてわからなかったよ。のんびりしたこの島の事件で言ってみりゃほとんど一瞬だった。集会に集まったガキどものほとんどがそん時に化け物になっちまったよ! 後はガキ相手に手が出せねぇ大人がゆっくり餌になるだけだった。一部は完全に食われるようなこともあったみてぇだけどほとんどは身体のどこかが欠けただけで化け物の仲間入りしちまった。今じゃまともなやつのほうが少ねぇ。つーか俺とお前の他にまともなやつがいるのかも分からねぇ」
「他にいないのか?」
「俺が知るかよ! 親父もお袋も丁寧にやられちまった! 俺ぁずっとこいつに乗って逃げ回ってんだ!」
「落ち着けよ。そんなに走ってガスは持ってんのか?」
「運良くガソリンを積んでた。今車に残ってんのは少ねぇけどもう一回給油できる」
「朝まで持つか?」
「朝ぁ? 朝まで持ってどうすんだよ。連中が朝日を浴びて灰になるってか?」
「そうじゃねぇよ。朝の定期便があるはずだ」
「んなこと分かってる。だけど俺は知ってんだ。電気がこねぇのは分かるがなんで電話が通じねぇ? ラジオも来ねぇ? 簡単だ。俺達ぁ隔離されたんだよ。200人ちょっとがせいぜいの島を放置するだけでこんな危なっかしい状況も対岸の火事だ。俺らがここにいる限り本土は安泰さ」
「どっちにしても俺達ぁ死ぬわけにゃいかねぇだろ。朝までなんとか生き延びて船がこなけりゃ最終手段だ。漁船を使う」
「お前のいう通りだ。だけどお前と同じことを考えた連中が港でごった返してる。みんな失敗した」
「そん時は車で特攻するだろ」
「無理だな。連中にひっくり返された車を見てねぇわけじゃねぇだろ」
「給油するか? 連中もいないみたいだし」
「あー」
 池上は僕に金属バットを渡すとシートの後ろにあったポリタンクを持ち出した。あたりは暗く、遠くから連中のうめき声が聞こえる。バットを抱えながらいつくるか、いつくるかと気が気でなかったが、結局連中は現れなかった。
「あれにカセットついてんの?」
「ついてるけど肝心のカセットテープが無ぇ。持ってるのか?」
「メタルしかないけど」
「連中の鳴き声よりマシだな」
 結局疲れていたらしい池上に代わり僕がその番は運転を務めることになった。何度か連中を轢いたがもう気にならなくなった。人間は残酷だと言うが本当だ。どれもこれも顔見知りで、少し顔を睨めばそれが誰かはすぐにわかった。だが少しそれを無視するだけでなんの躊躇いもなく殺せた。最も池上に言わせれば殺すとは違うらしい。
「マルチン神父が言ってたよ。地獄の釜が溢れたから今みてぇになったってな。地獄が悪人で溢れ返ってもう悪人を置いとく場所が無くなったんだとよ。こっちの世界と同じだな。刑務所に空きが無ぇんだ」
 結局そのマルチン神父も連中の仲間入りをしたらしい。つまり神父も地獄行きだったということだ。もちろんそんな話を信じるつもりはないが、人間なんて神の目で見ればどいつもこいつも悪人だろう。こうして躊躇いなく人だった者を殺す僕も同じだ。死ねば間違いなく連中の仲間入り。
 空が青くなってきた。雲が不吉な色をしている。自然を取り繕うように鳥達が鳴き始めたが、その数は少なく感じられた。
「連中は共食いしねぇのか?」
 池上は半分寝たような状態で呟いた。確かにそれは不思議だった。連中が腹を空かせて人間を襲うのは想像できるが、そのくせ食い残す。せっかくなら残さず平らげてくれればいいのだが、おかげで連中は数を増す一方だ。
「さあ。俺らがいなくなればするのかも」
「ぞっとしねぇな」
 そうして池上は再び眠りに落ちていった。デスメタルを聞きながらよく眠れるものだ。それもこの状況で。とは言え僕も眠かった。車の運転がこんなに疲れるとは思わなかったのだ。朝からずっと乗り続けていたとしたら池上の疲労もうなずけた。
 7時になった。いつもなら起きている時刻だ。ラジオにしてみるがやはり何も入らない。島の電波塔が連中にやられたのだろうか。分かっているのは連中は朝日にさらされても構わず動き回るということだった。
 港近くに車を運んでみると池上の言った通りそこはまるで連中の巣窟だった。朝の定期便は性格には分からないが8時頃に到着する。それまでにこの連中を攻略しなければならない。
「突っ込むか?」
「止めとけ。連中の二の舞だ。見ろよ」
 池上の指差した先には横倒しになった車がいくつもあった。軽トラックはバランスが悪い分より簡単にああなる。それは避けたい。
「とにかく」
 池上が何かを思いついたように始めた。
「船員が休憩するあの小屋にまで行けりゃ良い」
 指差した先にはオレンジ色の屋根をした小屋のようなものがあった。一度行ったことはあるが、内装が思い出せない。
「あそこは横田さんちのじいさんが鍵を開けない限り誰も入れないはずだ。連中だってまさか力技を使ってまで誰もいないところには行かないはずだ」
 なるほど、あの小屋は休憩所であると同時に港のゲートのようなものだ。定期便へ搭乗するにはあの小屋を通過しなければならない。となればあの先は安全か、ひょっとしたら誰か生き残りが朝の定期便を待っているかも知れない。
「どうする」
 メタルのロックにのせられたのか、連中がこちらに向かってくる。動きはやはり遅いが、囲まれたら車は身動き取れないだろう。
「なあ」
「あ?」
「連中泳げると思うか?」
「あー」
 僕の提案に池上は苦虫を潰したような顔をした。あんな人間のできそこないが泳げるとは思えない。確かに腕力はそれなりにあることは身を持って知っているが、泳ぐというのは頭を働かさなければ人間は溺れるばかりだ。人間は最も泳ぐことに向いていない動物なのだ。
「夏と言っても朝の海は冷てぇだろうなあ」
 そのぼやきを合意ととって一度港から離れた。浜辺は港の反対側にしかない。小さい島といってもぐるりと回るには時間がかかりすぎる。定期便がきてくれるとすれば、定時にはおそらく間に合わない。漁船の港もおそらく連中が集会を開いてる。
「橋から飛び降りよう。高さはせいぜい5メートル。底に激突しない限り死なねぇはずだ」
 池上の提案に従った。そんなに遠くないし、連中がそこにいない限り最善の策に思えた。数分車を走らせると運良くそこには誰もいなかった。アスファルトは血で赤く染められてはいるが。
 車を降りると警戒しながら橋の中心で服を脱いだ。トランクス一丁で人間として尊厳を守りながら身体を解す。僕はラジオ体操がどんな内容だったかを思い出せなかった。
「行くか?」
「行けよ」
 不意打ちを食らい心の準備もできないまま浅瀬に突き落とされた。多少底に肩に背中をぶつけたがこれで死ぬことはない。しかし口に入り込んだ海水に思わずむせてしまった。その間に池上も飛び込み、大きな水柱が立った。
「恨むぞ」
 本気だった。まだ口の中が気持ち悪い。
「恨むんなら連中にしてくれ。行くぞ」
 しかし池上は取り合わずに平泳ぎを始めた。僕はクロール以外の泳ぎ方を知らない。
 港に近づくにつれて波が高くなり、海水も冷たくなってきた。耐水性の腕時計を見る限り時間にはまだ余裕があるが、思った以上に体力を消耗している。軽口を叩く余裕も無い。結局たっぷり20分かけて港の梯子に到着した。思った通り小屋が障害となってそこに連中の影は無かったが、僕達は肩で息をして立っていられなかった。夏の日差しが暖かい。
 すでに8時を過ぎた。定期便は陰も無い。
「駄目かよ、ちくしょう」
 池上はそんな言葉をもう百回は言っただろう。実際僕も諦めていた。確かな時刻は分からないが、この時刻には定期便はもう来て、本土への道を進んでいるはずなのだ。それをこんなに遅れるはずが無い。こんな無風にも近い天気で。
「小屋に入ろう。漁船を使うにも鍵が無くちゃ」
 池上の言う通りだ。あそこなら何か役に立つものがあるかも知れない。連中もいないだろう。いるならもうこちら側にまできているはずだ。小屋の向こう側から連中の声が相変わらずしている。気味の悪い声だ。地獄の業火の変わりに日干しとは随分と優遇された亡者だと思う。
 小屋には鍵がかかっていたが、人間には知恵がある。二重になったガラス窓をコンクリート辺で砕き、手を回して鍵を開けた。泥棒の常套手段だろう。小屋に入るとそこはなるほど見覚えのある場所だった。簡単な無線機器に机に灰皿、自動販売機。壁には漁船の鍵が掛けられていた。それを全て手にするといすに座りしばらく休む。
「腹が減ったな。なんかないか?」
 池上は立ち上がるとうろうろと動き回った。まるで連中と同じだ。
「見てみろよ。連中暑さで参ってるんじゃねぇか?」
「おい、見つかるなよ。これから漁船を使うにも連中に見つかるとやべぇだろ」
「なに言ってんだよ。どうせ連中はここまで来れねぇって」
 あ、と僕は声を上げた。窓越しに連中がいきなり現れ、二重ガラスを突き破りその手で池上に掴みかかった。
「助けてくれ!」
 池上は叫ぶ。しかし連中は瞬く間に数を増し、ドアも限界だ。感づかれなければ、それがここの安全の条件であることをこいつはすっかり忘れていた。自業自得だ。
「助けて!」
 もうあちこち傷ができている。もう駄目だろう。すぐに連中の仲間入りだ。
「恨むなら連中にしてくれ」
 僕は池上が言った言葉をそのまま返し、小屋を後にした。しっかりと見ていたのだ。梯子を昇っていたときに小屋にボートが括りつけられていたことを。小屋出ると小屋の端に括りつけられていたロープを外し、着水したボートにほぼ飛び乗るように搭乗した。そしてボートの脇にあった短めのオールで漕ぎ始めた。本土は遥か遠く、霞んで見える。暖かかった陽射しはいつしか地獄の業火となった。
 あれから何日経ったのだろうか。右も左も分からず、ひたすら本土の影を追い続けた。意識は朦朧とし、時として海水を口にしては吐き出した。最後の記憶に人の影を感じながら、僕は再び闇の中に落ちた。
 再び目を開けると消毒液の匂いが鼻を突いた。状態を起こしてみると点滴酷く日焼けした自分の腕が目に入った。生き延びたのだ。ここは本土の病院だろう。本格的な機材がこぢんまりと点在している。安堵感に力が抜けるようだった。体を横たえ、深く深呼吸。そしてしばらくして違和感に気がついた。
 誰もいない。
 嫌な予感がした。点滴の針を引き抜き、スリッパを履くと病室を出た。ぺたん、ぺたん。不快な足音。蛍光灯が明るいが、時折覗く窓の外の光景は暗い。しかしあちこちから火の手が上がり、尋常でないことはすぐに分かった。
 結局病院には誰もおらず、病院を出るとその酷い光景に目を覆いたくなった。あちこちに転がる死体に、横倒しになった車。そして、連中の影。赤い光を振りまわすパトカーに駆け寄ったが、そこは誰もいなかった。ただ、発見はあった。初めて持つ、銃。リボルバーの6連発式。ずしりと重いそれを心の支えに、僕は再び歩き始めた。
 ぺたん、ぺたん、頼りない足音。



というわけで学校の課題として書いたもので、話は連続してないけど連続した文章を目指してみました。見事に轟沈しておりますね、ええ。元ネタは少し映画に精通してれば分かると思います。しかし学校の課題にゾンビものってのは俺が初めての自信あり。


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