第十四話 シュレディンガーの過去 ……うん。泣いてた 彼はまだ涙の浮かんでいる瞳を細め、笑顔でそう答えた。 結局守れなかった。弾切れでさ、もうちょっと、もうちょっとだったのに……。そしてさ、なんか、すごく嫌な気持ちになっ た だが、そこで言葉を切り、俯く。照明の元、影になって表情は読み取れない。 今でもよく分からないけど……、許せなくなった。すごく。そしたらなんか、自分が誰なのかも分からないようになって、な んか、すごく 影になった彼から、涙が零れた気がした。しかし、薄暗いためそれが涙だったのか、分からない。 怖いよ 彼からその言葉を聞くのは初めてだった。 レイヴンだから、きっと意識してないところで人を殺してるんだと思う。それもきっと許されない事だけど……、でも…… 嗚咽のように震えた声で彼は確かにそう言った。 俺……、人を殺したいと思ったの初めてだよ…… そして彼は翌日、ここからいなくなっていた。彼女には一言も声をかける事も無く、フエーリアエと共に。そして今日で それから丸一日経つ。 一応このガレージの整備士である彼女にも連絡があっても良いのだろうが、無いのだ。それにあったところで彼女に 何も言う資格は無い。 その事は分かっているのだが……。 彼女は思わず見上げる。遥か高い窓から射す朝日に照らされるACハンガーにあの派手なヒーロー色に彩られたAC の姿は無い。巨大な腕そのもののロボットアームがそこでその役割を待っているだけだ。 人を殺したいと思ったの初めてだよ…… 再びその言葉を思い出す。 彼女が思い返してみれば、それこそ数え切れないほど人に対して殺意を抱きながら生きてきた。初めて人を殺したい と思った時の事など思い出せない。ただ、今でも家族を殺したレイヴンに対する憎悪、殺意は癒えてはいない。それが 初めて彼女が抱いた殺意だとすれば、ジーノはその事自体に恐怖は感じない。むしろ、そのレイヴンが今でものうのう と生きているとすれば、それが悔しくて仕方がない。 しかし、ロジャーの言葉を思い出すとそんな考えを持つ自分がこれ以上無く醜く感じられた。 人間なら誰もが抱くはずの負の感情にロジャーは自身に恐怖していた。 望まないながらもレイヴンとして人を殺してしまい、いざ殺意を抱けばそれに恐怖するロジャー。殺意は抱くがそれを 実行する事の無い自分。一体人間としてどちらがまともなのだろう。 トゥワイフという医者なら答えられそうな気がした。 彼は自分が元々レイヴンであると彼女に知らせた。正確には口にしたわけではなく、レイヴンしか持つ事の許されな い携帯ナーヴを持っている事で彼女にその事実を伝えたのだ。 彼もかつてレイヴンとして苦悩したのだろうか。ロジャーのように。 そしてそのロジャーは今どこにいるのだろう。なぜここを出て行かなければならなかったのだろう。 そこまで考えてジーノは首を振った。 どうしてしまったのだろう。気付けばロジャーの事ばかり考えてしまう。そう思えばこの間はコヨミの事ばかりを心配し ていた。 実は自分が思う以上に思い悩む性格なのだろうか。 そう考えて彼女はひとり自嘲した。 そんな事を考えている時点で思い悩む性格である証拠だ。 ジーノは何も考えないようにと自分に言い聞かせ、足早に自室へと向かった。 今日からACが一機、このガレージで預かる事になる。そうすればまた忙しくなるだろう。仕事をしていれば思い悩む 事も無い。 友達じゃん 不意にそんな言葉を思い出す。 もし、また会うような事があれば、 「認めてもいいかな」 彼女は自分自身にしか聞こえない声で、そう呟いた。 もう、何日も、何年も歩いている錯覚を覚える真っ白の通路、俺は呼ばれ、そこを進む。 何のために呼ばれているのか、そんな事は知らん。ただ呼ばれたから行くだけだ。気にいらねぇが、自分の身分って やつを考えるとそうも言っていられない。 所長室。 そこで俺が何を言われるか、もしくは何を知らされるか。 想像は出来るがしようとは思わない。実際見ていない事、聞いていない事を信用する気は無いからな。 他のやつとは違う。 俺は自分で考え、自分で決める。 他のやつとは違うんだ。 俺に付き添う人間はいない。妙な行動をとろうにも通路を見渡せばざっと2、3の監視カメラが目に付く。そいつが俺 の動きに合わせて首を振り、ピントを合わせる機械音が聞こえる。こいつらが常に行動を監視する。おまけに何か出来 たとして俺の体内で生命活動を補助しているナノマシンが自殺命令を受ければ俺は即死するしかない。そしてその命 令はボタンひとつで発せられるわけだ。 冗談じゃない。 だが、長い間こんなところで生きていればその穴も見えてくる。おかげで資料のひとつでもパクる事は出来たんだが、 まあ、それだけだ。その穴もどこにでもあるわけじゃない。 思考を走らせながら脚が遂に所長室に辿り着く。前にも来た事はあるが、その時は警告だった。 お前は危険だが、いつでも殺せる。せいぜい生きろ。 確か、そう言われた。しっかりと覚えちゃいないが。 目の前に丸く縁取られた亀裂のようなもんがある。趣味の悪い出入り口だ。 その上に設置された監視カメラが俺を睨みつける。気に入らない面構えだ。 そのカメラで俺がここに来た事が分かったのか、目の前でドア、と言うよりもゲートが開く。何をそんなに怯えているの か二重ゲートになっていやがる。 『入りたまえ』 どこまでも気に入らないカメラはそんな事まで言う。何か機会があれば握り潰したいところだが、そう簡単じゃないの が残念だ。 促されるままにそのカメラを潜る。二重になっている分厚い敷居を跨ぎ、そこは通路の延長のような白い閉鎖空間 だ。少しばかり広いが、その先に白いデスクと、偉そうな人間がひとり。 初めて見る顔だが所長室にいるのだから所長だろう。前に来た時は見なかった。 「13だな」 ナンバーを抜かし、気だるそうに男が言う。歳は四十そこそこ。鼻の下と顎に中途半端な黒い髭を生やしてる。背丈 は俺よりも低い。殴りかかれば例え銃を持ち出しても確実に殺せる。問題は例のボタンか。 俺は黙る。そちらの方が都合が良い。 「二十時間後、別施設との二次試験がある」 別施設。さっきの資料にあったエデンとヘヴンか。 試験ってのは例の如く殺し合いか、ACを使った殺し合い。殺し合い、殺し合い、生き残れば強い。簡単な事だ。 「この施設では、お前を選抜する事になった」 まあ、だろう。俺は他の馬鹿とは違う。もちろん、1番強い。俺が最強だ。どんな野郎が出てこようが俺は勝つ。その 自身がある。 「お前は色々と問題を抱えている。だが、せめて試験中大人しくしていれば、無事は保証してやろう」 してやろう、と来た。 ふざけるな。 俺はお前のために生きてるわけじゃない。 俺が生きてるのは俺だけのためだ。 だが、口には出さない。 下手に騒いで、もう二度と口を開けないようにされても困る。 「その試験は極めて単純、いつものように戦え。違うのは場所と相手と使うACだけだ」 ほう、ACが違うのは楽しみだ。相手もな。 いつものような退屈な的、乗り物じゃあ欠伸3回の間に決着がつく。そう考えれば少しくらいの危険は楽しみで仕方が 無い。 もちろん、最後の勝つのは俺だ。負ける訳が無い。 「金色の目の使用を伝えておく。存分に戦え」 所長は続ける。そんな下らない事は文章にしてくれりゃいいんだが。 まあ、いい。 うまくいけば自由が手に入るかも知れん。 そういう期待もある。 「以上だ」 そしてもう一言、この言葉を期待していた。いつまでもこんな辛気臭いところにはいたくない。もちろん、ここに辛気臭く ないところなど無いから代わり映えはしないが。 逆らう理由は無い。リスクに対するリターンも無い。 軽く一瞥し、踵を返す。 俺が向き返ったと同時に丁度良く開いたゲートに気を良くしながら、所長室を後にした。 ゲートの閉まる糞喧しい音を背後で聞きながら、おそらく生まれて初めて腹の中で何かが煮え滾るような感覚を抑え る。妙にはしゃいで暴れれば名刺も持たない無礼な死神に首をさっくり持ってかれるかも知れん。 だが、うまくいけば……。 気分が良い。 そんなわけは無いが、白い通路が薔薇色に思えてくるほどに。 薔薇など生まれて一度も見た事は無いが。 「アルビノエンジェル……、長ったらしいな」 バーメンタイドは目の前のACと手前のコンソールパネルに表示されたその名前を見るとどうでも良いように呟いた。 このガレージに来る前に作業を受けたのか純白の塗装も奇麗なもので、関節にも疲労らしいものも無い。このガレー ジにACを送ったのは仕事が減ったからか、それともレイヴンの気まぐれか。とは言えこのガレージはネオアイザックの 中心に位置しているだけあって仕事には事欠かない。 所有者から換装の依頼は無い。それほど汎用性の高い機体なのかとアセンブルデータを覗いてみればエネルギー バランスが悪く、武装もエネルギー系統だけときている。そこへシールドとくればよほどの好きものなのか、兵なのか。 とにかく換装も修理も無ければ今まで通り暇なだけだ。 一対の大型の電極が邪魔でハンガーの設置に手間はかかったがそれも簡単なものだ。AC用ハンガーは現行規格 のACならばどのようなアセンブルパターンでもあっても問題無くACを固定してくれる。規格兵器はこういう面でも非常 に便利だ。 暇である事に対して小さく溜息を吐くと、今月の収入の事を考え更に溜息を吐く。 個人運営のガレージだ。下手に根回りの無い分資金の無駄が無いため貧しいわけではないが、経営者としてはあま り気分の良いものではなかった。 従業員の殆どがアルバイト扱いなのが救いだ。 コンソールパネルの電源を落とし、パネルの冷却フィンが停止する音を確認すると、お前も熱かろうと彼は首に巻い ていた濡れタオルをその上に置いた。 昨日辺りから今までの肌寒い天候とうって変わり、夏らしい蒸し暑さが戻ってきた。バーメンタイドは体質柄寒いよりも 暑い方が助かるのだが、こうも急に変わればその限りではない。 「夏風の使い過ぎ足れば、日は微笑み、雲は眠らん、か」 目の前で純白のACが零れ射す光を反射し僅かに辺りを照らす。 かつてはこのハンガーに赤い原色のACがかけられていた。だが、あの巨体も手続きひとつでここではない何処かへ 運送される。その運送先を知るのはガレージ管理人である彼だけだ。少なくともここでは。そしてそれは誰にも教えては ならないようになっている。レイヴンはあらゆる意味で人の恨みを買う。当然の事だ。 だが、フエーリアエに乗るレイヴンは違う。 少なくとも、人間としては。 そこまで考えて彼は止めた。 そうだとしてどうするというものではないのだ。 踵を返し、自室へ向かおうとするとジャケットの中で派手な電子音が鳴り響いた。携帯電話への着信だろう。着信音 からするにテキストメールだ。 「仕事だ、仕事」 そしてその着信音はこのガレージに送られてきたものを携帯電話へ送信したものだ。さすがに大きな容量を持つ画 像などは出来ないが、簡単なテキストならば携帯電話でも十分再生出来る。 ストレートタイプの液晶画面に受信したメールのテキストが表示される。簡潔で、あまりにも短い。 『ACを使用する。用意を。 R999KkyT0q ナイツ』 ただ、それだけだ。 この十桁のパスワードは全通りで十京近い並びがある。地球と火星のレイヴンを足した総数でもたかだか一、二万程 度のレイヴンにそのすべての通りが使用出来るわけではないが、偶然で一致する事はまず無い。 このパスワードを完全に覚えると言う特技をいつの間にか身に付けていたバーメンタイドはそのメールが悪戯で無い 事を確認する。 用意というほどの用意は必要無いがコンコードからの迎えがいつ来てもいいようにする必要はある。 彼は携帯電話をジャケットにしまい直すと、改めて自室へと向かった。 悪くない。 目の前の鏡に映る手前の面に俺は満足する。 今までの黒い擬似光学カメラなんてつまらないもんじゃない。完全な戦闘用の目玉だ。 俺にとって一番必要で、他には代わりの無い目玉。 金色の目。 およそ連続使用数百年の耐久性、極めて高い伝導効率、光ファイバーと純金繊維、そしてナノ精製された保護組織。 完璧だ。 こういうのが欲しかったんだよ。 俺は。 体中に走る光学繊維の神経にはこれくらい無けりゃ釣り合わん。強化された全身の筋肉繊維にはこれくらい無けりゃ 釣り合わん。後頭部に追加された人工脳髄にはこれくらい無けりゃ釣り合わん。 他とは違うんだよ。 俺は。 生きるために殺すんだ。俺が生きるために。 他とは違う。 命令されて戦うような肉人形とは違う。 金色の目が入っていた合成スチールのケースに今までの出来そこないを放り込むとケースごと目の前の男に渡す。 「どうだ?」 そいつは馴れ馴れしくそんな事を聞きやがる。 こんな所にいなけりゃすぐにでも殺す。殺してやるよ。 周囲は例の如く真っ白く塗られた滅菌室だ。つまらない、退屈な色だ。 出来るなら真っ黒く塗り潰してみたいもんだ。 チカチカするんだよ、白ってのは。折角の新しい目が草臥れちまう。 「目を入れ換えるってのはどんな気分なんだ?」 男は汚い顔を俺に近づけ、にたつく。こいつも白い白衣を着たつまらない野郎だ。 「教えてやろうか?」 そいつの面に俺は二本の指をかざしてやった。入れ換えるには今あるものを取り出す必要がある。 眼球を抉られると思ったんだろう。男は座っていた椅子から転げ落ち、情けない声を上げる。俺にそんな気は毛頭無 いんだがな。そんな事をしたら次の瞬きが一生ものになっちまう。 男はまだあわあわ言ってやがる。 下らねぇ。 人工脳髄が三十分の時間経過を伝える。 嬉しくてたまらない。 「後十八時間と三十分」 いつの前にか声に出してしまっていた。腰が抜けたそいつは呆けたように俺を見ている。 「誰を殺させてくれるんだ? 俺もどきじゃねぇんだろ? 教えてくれよ。色々よ」 もう、止まらなかった。 待ち遠しくて仕方無ぇ。 早く、早く、戦わせろ。 俺を。 病院屋上、大した高さではない。しかし風が強く吹き、彼の羽織ったあり余りの白衣をはためかせた。空は真っ青で、 唯一シティを警護しているのであろう無人航空機が丸い影を落としていた。その姿は文字通り空跳ぶ円盤である。 彼は血の匂いを嫌うように缶に入った匂いの強い紅茶のプルタブを開け、それを花壇を仕切るコンクリートの上に置 く。 鮮やかな黄色、しかし控えめな大きさだ。それが並び、一目には黄色いガードレールのようにも見える。 「……マリーゴールド……か」 年間を通して気温の低い火星には咲く事は無い夏の花だ。 それに並ぶように彼はゆっくりと腰を下ろした。潰してしまわないように注意を払いながら。 それが目の前で眩しいほどの太陽光を吸収し、生きている。そこには怒りも、憎しみも無い。その代わりに喜びも、楽 しみも無いのだろう。植物に精神や、感情があるという話も無くは無いが、進化の過程で動物と植物は最も早い段階で 分離した、完全な異生物だ。あるとしても、分かり合える事は無いのだろう。 そもそも動物、つまり動物細胞生物は他の細胞生物を取り込み、つまり捕食する事によってエネルギーを得る事を選 んだ。酸素を得る事により活発に活動出来るようになった彼らは自らよりも弱い者を取り込む事により、従来よりも何 倍も効率の良い生命活動を行なうようになった。 それに対して植物は根本的には今からなんら変わる事の無い性質を持ち続けている。太陽から受ける事の出来る無 償のエネルギーと原子の海に多量に含まれていた二酸化炭素を組み合わせ、自らの礎とする。そこに求めるという行 為は無く、もはや両者の間には相容れる事の無い何かがあったのだろう。 そしてその中、動物は意志を持った。あくまで動物同士にしか理解し合えない意思であるのかも知れないが、辺りに 影響を与える事によって意思を示す事が出来るのは動物だ。そしてその意思の根本にあるのは言わば肉食だ。 つまり支配だ。 そう言った性質を持つ以上、他種の生物は愚か、人間同士であっても争うのは言わば必然なのかも知れない。 そうだとしたら医者はどうしたら良い。 彼、ニコライは心の底から、そう思う。 冷たい紅茶を口に含む。鼻を吹き抜ける香りが、消毒液と血の匂いを洗い流してくれるようだった。 照りつける日光が彼の短い金髪に反射し、皮膚に夏の暑さを浴びせかける。 火星出身の彼には過酷な天候だ。だが、今は院内に戻る気は無かった。 遂先程まで例の強化人間と思われる人間ひとりを解剖した。その時の、死体らしからぬ生暖かい臓器と無理やり取り 替えられたであろう人工臓器、人工繊維、どのように接続され、どのように連動していたかも分からない人工脳髄。血 液中に多量に含まれていたナノマシン。 これを調査しろとは言われたが、短く、しかし正確に表現するとしたら、 「完全なオーバーテク」 彼は呟く。 しかしそんな事は全く問題が無いように思う。 彼にとって想いの種はその強化人間はこんなものを身体の中に内蔵して何を思っていたのかだ。 記憶細胞と言われるものが脳以外の臓器にも存在する事は分かっている。そう言った観点からすれば、その大部分 を失った強化人間とははたして人間なのだろうか。いや、きっと人間なのだろう。少なくとも本人にとっては。 医者になると理屈っぽくなって仕方が無い。 ニコライは無駄に考える事を止めると再び紅茶を口にした。その冷たさに口の中だけが別の世界に飛ばされたような 感覚を覚え、幼稚な妄想に彼は笑みを溢す。 死。 そこに下らない理屈や妄想を持ち込むのはあまりにも非倫理的だ。 死は終わりであり、個人にとっては全て、世界の終わりも同然だ。他人の考えや、科学の介入は全くの無意味。 彼は職業柄下手な軍人よりも多くの死体に立ち会う事が多いが、常々そう思う。自分もいつかこうなるという恐怖では なく、どのような想いを遂げられずに死んでいったのかという無意味な同情。 医者であるためには少しくらいは不感症になった方が良いのだろう。 そうも思う。 ニコライは白衣のポケットから白いプラスチックのケースを取り出すとそこから薄乳白色のサプリメントを取り出した。 何粒かなどは考えず、出てきただけ掌に受け取り、それを口の中に放り込む。それをガリガリと噛み砕き、紅茶で流し 込む。 こうして彼の昼休みは無事終わりを告げたのだった。 気分が良い。 俺は宛ても無く白い通路を闊歩している。時折同じ顔をした人形がすれ違うが、もう違う。俺の双眼はもうただの人工 眼じゃない。 戦闘用の金色の目。殺すための、選ばれた者の眼ってわけだ。 元々こいつらは俺の相手にもならない肉屑だ。どいつもこいつも同じような動き、それこそコピーだ。動きを読むどこ ろか、"分かる"。覚えちまったからな。 まずは上昇。理に適ってると言えばそうだ。ACは性質上真下への攻撃は出来ても真上への攻撃は苦手だ。つまり上 にいれば有利と言う事になる。 だが、それも真上にいればの話だ。 距離を離せば空中にいる方が不利になる。地上ではスラスターの出力を軽減し、その分をブースター出力に回せる が、空中では姿勢制御のためにもそうはいかない。同じ武装で撃ち合えばどちらが勝つか、馬鹿でも分かるが肉人形 らには難しい問題のようだ。 そう言えば、俺らには生まれ持って戦うための知識、つまり小脳に戦闘に関する記憶が刷り込まれているんだそう だ。それはどれも同じ、たったひとりの人間がモデルらしいが、そういうのもあるんだろう。もちろんどれも同じようなや つじゃあ何の意味も無いからそれには色々情報操作が入ってるそうだ。そしてその結果俺みたいなやつも出来たんだ ろう。その人間が誰か、俺が知るわけもないが、多分レイヴンだろう。ACの乗り方に関する事なんだからな。 あちこちで俺を監視するカメラがピントを合わせる機械音が鳴り響く。普通の人間には聞こえないような音だろうが、 俺には聞こえた。そういう風に出来ている。いつ生まれ、いつこういう身体に仕上げられたか、そこの部分だけ記憶も、 人工脳髄の記録も曖昧で詳しくは分からんが、そんな事はどうでも良い。 選ばれたのは俺だ。いつまでも働き蟻をしているつもりは無い。 自由になったその時はここにいる俺もどきは皆殺しにしてやる。それと俺のボタンを握ってやがる奴も、ボタンも残ら ずだ。後ろで色々やってやがるクラインとか言うレイヴンも、俺を知ってる奴もみんな殺す。気に入らない奴も、目障り な奴も、みんな殺す。 それぐらいしてもいいだろう。そのための力だ。 足元で白く光を放つ蛍光灯が妙に面白く感じられる。もしかしたらこの蛍光灯を壊せばこの施設中が真っ黒になるに なるのでは、そんなくだらねぇ妄想のひとつも今では許せた。 脳内のエックス線センサーが前方、曲がり角の向こうで何かが動いている事を知らせる。初めは中々慣れなかった が、今となっては便利で仕方ない。そして予想通り前方から俺もどきが現れる。しかし今までとは少し違う。 金色の眼の可視する周囲の熱は通常よりも低く、強化された聴覚から通常よりも軽い事が知覚出来た。 それはつまりプラスじゃない事を意味する。俺よりも下、四班、五班と言ったところか。下と言っても老化が止まってい る俺に比べてそうは違わねぇが。 白く反射するプレートにはNO44。ぞろ目か。13なんていう中途半端な数字を与えられた俺にとってはなんとも気に なる数字だ。 「羨ましいな」 俺は思うまま言葉を吐き出す。 そいつは俺の言葉を無視するでもなく、一瞥をくれてそのまま横を通り過ぎようとする。 つまらん奴だ。 「待てよ」 44の前に腕を伸ばし、邪魔をする。だが、その腕を避けて更に無視を続けるそいつは正に俺の殺したい人間だ。 気に入らねぇ、下らねぇ、つまらねぇ。 「おい」 腕を伸ばせばすぐに届いた。俺の手が知覚するそいつの腕はあまりに弱い、人間の物だ。 つくづく思う。 弱い奴に生きる価値は無い。 「放せ」 何? こいつが言ったのか? 弱者が吼えたのか? もどきが、俺と同じ声でか? そしてそいつが黒い本物の眼で俺を睨みつけている事に気付き、人口脳髄が思考を止める。 右手の中で何かが砕けるのを知覚する。そして摂氏42度前後の血液、痙攣する筋肉。だがセンサーがその無駄な 情報を送り込むのを中断させ、そのまま投げ飛ばす。飛び散った血で白い壁が赤く染まるのが思いがけず面白い。 普通の人間ならショックだの、苦痛だので意識を失うんだろう。だがこいつも一応まともじゃない側だ。面を顰めてや がるが意識はしっかりとしていそうだ。 そう簡単には殺さん。生身なら生身なりの扱い方がある。 強化されていない眼球を抉り出し、筋肉を引きずり出し、心臓を取り出して口に詰め込む。 そう思考したところで機械音を知覚する。 下、上。 視覚には温度の上昇、大気のうねりが"見える"。 施設防衛用のレーザーか何かだ。騒ぎをかぎつけて強硬手段という分けか。流石にはしゃぎ過ぎたな。 俺はそう後悔しながら半歩後退する。 その瞬間を見計らったように熱が目の前を通過する。レーザーというよりも極めて単純なカロリービームか。床から、 いや天井から何条も何重に渡り照射されているのが大気熱の動きで分かる。もちろんあちこちで火花が上がっている 以外に可視は出来ないが身動きがとれない事も十分に理解出来た。 44は運良く熱に切り裂かれずに済んだようだがやはり無事ではなかった。ビームが掠めただけなんだろうが床に突 っ伏し、微動だにしない。白い服からは炎が上がり、死んでいる事は容易に想像がついた。 まったく、これだから生身は嫌だ。すぐにくたばる。 ビームの照射は止まない。流石にこれだけ長時間照射していると気温の上昇も尋常じゃない。感覚センサーに連動 する人工脳髄は常人ならばこの場にいるだけで全身を火傷するほどの温度を叩き出している。もちろん全身の生命維 持ナノマシンは細胞組織が傷つく側から再生させ、そもそも遺伝子レベルで強化されている身体はこんなもので音を上 げない。 遠方でスピーカーが振動するのを知覚する。音声が接続されたんだろう。 『13』 案の定可愛げの無い野太い声が俺の番号を呼ぶ。 『お前を拘束する。そのまま動くな』 そして接続が中断された。 動こうにもこれじゃ動けねぇが。 まあ流石に今回の事はしょうがないかも知れん。サーカスのライオンもピエロを食い殺せばその末路は悲惨極まりな い。 溜息を吐き、直立不動のまま待つ事にした。 考え方を変えれば殺されなかっただけ幸運だ。それだけ俺が重宝されているのか、死よりも酷い仕打ちが待っている のか、考ええるだけ無駄か。なるようにしかならない。少なくとも自由になれるまでは。 再び溜息を吐き、高熱の大気を人工肺に吸いながらふと思う。 サーカスのライオン、ピエロ。 俺のこういった知識はいつ、どこで得たものなのだろう。 「ああ、そうそう。とりあえずお前とサライだけでも来てくれよ。今ACが出るから戻ってくる頃にさ」 バーメンタイドは受話器を手に捲くし立てる。電話線の向こうでは少しばかり機嫌の悪そうな若い男の声が応えてい る。 『あのですね? 親方。サライさんは分かんないですけど僕は勉強中でしてね? 今年は大学受かりたいな〜っていう 切なる願いがありましてね?』 「なあ、ベンよ」 ベンの言葉には耳も貸さず、彼は続ける。 「車傷ついてたんだよ。俺の知らない間に。ケツの方」 全く関係の無い話だった。傍目にはそう感じられる。しかし、少なくともベンにとってはそうではないらしく、"切なる願い "の続きを言い出せなくなった。 『……へぇ〜、世の中不思議な事もあるもんですね〜』 代わりに白々しくもそう言うが、明らかな動揺が聞き取れた。電話線の向こうできっと顔を引きつらせているに違い無 い。 「ジーノは既に自供してるぞ」 『……あいつ。いや、僕はあいつに頼まれてですよ。ホント。僕もね、止めたんですよ〜? でもほら、あいつロジャーの 奴と何かあったから』 だがバーメンタイドの一言で彼は簡単に観念した。猿ぐつわを外された如くぺらぺらと言い訳をする。 「嘘だ」 それを止めるように彼はただ一言、そう言う。 『はぁ?』 ベンはそれに間抜けな声を出すしか無い。それ以外何も出来ないが、嫌な予感だけはしっかりとした形で彼を縛り付 けるのだった。 「ジーノは何も言ってねぇよ」 ただ沈黙が流れ、しばらく後、更にもう一言。 「早く来い」 『はい』 ようやく聞く事の出来たその素直な言葉を最後にバーメンタイドは端末のリセットボタンをひと押しし、回線を切断する と予め登録しておいた短縮ナンバーを入力する。 受話器の向こうで呼び出し音が一回、二回、その途中彼の視界に見知った背中が見えた。 水色の光沢を放つ合成繊維のボディーバッグを背負い、靴の踵を合わせるように何度も爪先で合成金属の壁を蹴り つけている。傍目には陰湿な八つ当たりのようにも見えるが、そうではないと思いたい。 『おーい。親方。どうかしましたか〜?』 その光景を見ているといつの間にか呼び出し音は中断されており、受話器の向こう側から女声が彼を読んでいた。こ こで雇っている整備士の一人である、サライの声だ。 「ん? ああ」 一瞬何の用事だったが忘れてしまったがすぐに思い出す。しかしそれほど急ぐ事でもなかった。 「掛け直す」 『なんだそりゃ』 不満そうな声を無視してバーメンタイドは受話器を電話端末の上に載せるとやや駆け足でその背中に向かう。広いガ レージにあっては端から端までがちょっとしたマラソンだ。そうでなくとも数十メートル単位で離れている。色々な意味で 距離を感じてしまうのもしょうがなかった。 「ジーノ」 彼はその背中に辿り着く前に声をかけた。こちらの方が早い。 声をかけられジーノは律儀に振り向いた。しかし露骨に嫌そうな表情を作り、両手を腰に当ててその場でバーメンタイ ドを待ち構えた。 「何だぁ? その面ぁ」 そんな顔をされたらいくら姪とは言え正直いい気ではいられない。最近ぶり返してきた夏の暑さもあり少しばかり不機 嫌にもなる。 「どうせ、なんだ、またコヨミのとこか。いい加減迷惑だろ。それよりもこっちを手伝え、じゃなかったら勉強しろ、でし ょ?」 「まあそうだな。保護者としては特に勉強しろ、を推したい」 皮肉を込めたジーノの言葉に叔父の彼もまた皮肉で返す。ただ彼の場合あまりにも露骨であったが。 「で、どこ行く気だ?」 「コヨミんとこ」 「やっぱな」 「悪い?」 「勉強しろ」 「教えてもらうのよ」 「大体あっちまでの脚無ぇだろ?」 「歩く」 「若いねぇ」 「誉め言葉?」 「違うに決まってんだろ」 「どうしろっての?」 「手伝え」 「ヤダ」 「あのな?」 バーメンタイドは溜息を吐く。これでは堂々参りだ。ただ、あの男がいなくなった事の負い目はあまり無いようで正直な ところ少しばかり安心する。 それにしても昔は良くこんな口論をしたものだった。もう何年前になるか。お互い我の強い性格が災いして下らない事 で言い争った。その度母親の食料制裁を受け無理矢理仲直り。今となっては遠い昔の出来事だ。 「やっぱ姉貴の子供だよ、お前」 ついつい笑みを溢しながらバーメンタイドはそう言うのだった。 案の定ジーノは彼が何を言いたいのか分かりかねた。また何かの皮肉か、などとも思ったがバーメンタイドはポケット のチェーンにつけられていた幾つもの鍵の中から一つだけを取り外すとそれをジーノに差し出した。 「え、何?」 それがどういう意味か分からず、ジーノはその鍵を受け取る事も出来なかった。 「スクーターの鍵だ。使え」 これはこうなってしまえば何を言っても無駄だろうと言う彼なりの理解の示し方だった。しかしそれも十分とは言えな い。 「あたし免許無いよ」 当然のようにそう言い返すがバーメンタイドは涼しい顔だ。 「なーに。スクーターってのはバイクとは違う。自転車乗れれば誰だって乗れんだよ」 確かにクラッチが無く、車高の低いスクーターとバイクとでは扱い方は大きく違う。パワーと重量の関係でそれほどス ピードも出ない。とは言えやはり免許が無ければ運転していいものではない。 「あたし自転車乗れないよ」 しかしそれ以前の問題である事を彼は思い知る。初耳であるのと同時にそう言えばジーノが自転車に乗っているのを 見た事が無いのを思い出した。 「あ〜、そうか。歩いて行け、だったら」 もうどうでも良いと彼は笑うとジーノの肩を叩いて再びサライに連絡をとるため電話端末に向かう。 「あのさ」 「あん?」 その彼の背中にジーノは声をかけた。その声は先程口論していた時とは打って変わった控えめな声で、バーメンタイ ドは何事だと振り返る。 「本当に行っていいの?」 「はあ?」 ジーノのその言葉にバーメンタイドは思わず吹き出した。改まって言ってみればいきなり何だ、と。 しかし、それを見るジーノにしてみれば馬鹿にされているようで良い気はしない。 「なに?」 「いいや」 まだ口を抑えながら横隔膜の痙攣と格闘している彼はそう言うのがやっとだ。鍛えられた腹筋も内側からの攻撃には 全く無力で、痛くて仕方が無い。 「なんかムカツク」 当然のように出る彼女の言葉に手をひらひらさせながら、 「分かった分かった」 何とか笑いを堪えながら彼は言葉を繋げる。 「行けよ。別に悪い事するわけじゃねぇし」 そしてそう言うと限界に達したのか、今度はガレージ中に響くような大声で笑いながら奥に消えていった。 その様子を呆れながら見送り、ジーノも踵を返す。無駄に体力を使ったようで変に疲れたが、悪くなかった。彼女にと って父親はやはり一人だが、父親代わりとなればやはり叔父のダイン・バーメンタイドでしか有り得なかった。そして今 更ながら彼の心遣いに気付き、振り返ると既に小さくなっている彼の背中に心の中で小さく、ありがとう、と言うのだ。 その途端に誰かにぶつかった。背負ったボディバックの中にある参考書の硬い感覚が、ぶつかった人物の力で押さ れているのが分かる。 「あ、ごめんなさいっ」 ジーノは反射的に出た言葉と共に慌てて振り返る。 振り返った先には少年が一人、立っていた。衝突を避けた左手がかざされ、巨大なシャッターから射す夏の陽射しに 少年の白髪が鈍い光を放っている。背丈はジーノよりも幾分か低く、歳も大きく見積もって十二、三程度に見えた。 「えっと」 その少年は黙ったまま、睨んでいるでもなく表情の宿らない瞳でジーノを見つめていた。意思のようなものは読み取 れず、中途半端に長い前髪から覗くどこか人間離れした金色の目が金属的な光沢を見せた。 その顔を見てジーノは不思議な、しかしはっきりとした感覚を覚えた。 見覚え、だ。 しかし彼女の友人や知り合いのこの歳の少年はいない。いたとして覚えてはいないのだ。 少年はその視線を彼女から反らし、虚ろな顔のままジーノの横を通り過ぎようとした。 「ねぇ」 その少年にジーノは声をかけた。知らない人間に話し掛けるのは苦手だが相手は自分よりも年下であるし、そんな子 供がこんな所で何をしに来たのかも気になる。 だが、少年はその声がまるで聞こえていないように無視し、その歩みを止めない。 「ねぇってば」 先程よりも大きな声で再び声をかける。だが、やはり彼に反応は見られない。どこ吹く風と言った様子だ。 「ねぇ」 ジーノは少年に立ちはだかった。体格で勝っているため気持ち的にもそれは簡単だった。 進路を断たれ少年は立ち止まり、しかし変わらぬ無表情を見せる。一見不機嫌そうには見えるが、そうではないのか も知れない。 「何だ?」 彼は用事を尋ねた。その声は見た目以上に低く、ただ空気が吐き出されているだけのような声だった。言わば人間 味のようなものが無く、他者を拒絶しているようにすら感じられる。 「え、えと」 その声で改めて尋ねられるとすぐには答えられず口篭もってしまったが、しかし調子を取り戻す。 「何でこんな所にいるの? ここは君の来るような所じゃないよ?」 ジーノは相手を見た目相応の子供として優しく声をかけた。あの男ならば相手が彼女ほどの歳でもこんなものだろう が、ジーノにとってはそうではなかった。 そんな彼女が鬱陶しいのだろうか、相変わらずの無表情がその内心を晒すのを拒んでいたが、少年は行動で示し た。ジーンズのポケットから取り出した黒いカードを彼女に見せ、再び感情がこもらない低い声。 「R999KkyT0qナイツ。ACの用意は済んでいるか?」 少年がまるで当然のように発した言葉にジーノの開いた口は塞がらなかった。そう、彼の発しているのは他ならぬレ イヴンの言葉だ。レイヴンとして以外には発する事の無い言葉。 返事を待つ前に奥にハンガーから開放された純白のACを確認するとそちらへ向かい歩き始めた。それは主の搭乗 を待つように幾重にも重なったその胸部装甲板を持ち上げ、そこからはコックピットフレームが競り上がっている。 ACは暗黙の了解としてレイヴン以外の人間が搭乗し、操縦する事はタブーとされている。そのためリグへの運搬もレ イヴン自身が行わなければならない。一部のガレージではこのAC運搬のためにレイヴンとして登録したメカニックもい ると言うのだから、レイヴン以外の人間にとって、特にガレージの人間にとってはこれ以上面倒な事は無いのだ。 少年の背中は次第に小さくなっていく。既にそれを追う気力も無く、ジーノはシャッターを潜る。すると低い音に気付 き、そちらへ振り返ると周囲の建物よりも大きな巨大コンテナを持つキャリアーリグがディーンドライブと共に大量の大 気を排出しながらこちらへ向かっているのが、まるで何かに押し潰されそうな圧迫感と共に目についたのだった。 全身を強化合成繊維のベルトで巻きつけられ、さすがに身動きがとれず俺はコンテナ詰めにされどこかへ運搬されて いるようだった。頭部には鉛のナノ結合繊維で出来たマスクがはめられ、何も見えない、何も知覚出来ない。 ただ全身の感覚は働いている。そこから現在の体感速度、走行状況、そして大体の向かっている場所は分かる。 がこんがこんとマスクを貫通して聞こえる振動音。ホバー推進ではなく、車両だ。振動そのものは少ないからキャタピ ラか。まあ、このあたりはさすがに分からん。 いつまでこんな事をしていればいいのか、俺は視床下部あたりで今にも暴れだしそうな欲求をやっとの事で押さえつ けるとひたすら人工脳髄で知る事が出来る時間の経過を待つ。 このまま殺されるような事が無ければ後二時間足らずでお楽しみの時間だ。その事を考えれば何とか我慢出来る。 そう。 俺の人間じゃない部分が何の違和感も無く"俺"として働くその瞬間が最高だ。そしてそれが敵を叩き潰す時、これも また最高だ。 戦っていられれば良い。 何も考える必要が無い。 そのための力だ。 しかし暇だ。こうしてその時を待ち侘びるのも良いがそれまでの間に出来る事と言えばただひたすらの思考しか無 い。 思考。 この宇宙の成り立ち。 物質生成の過程。 万里の生まれた瞬間。 重力の正体。 下らない。 どんな理屈を並べようとする事は変わらねぇ。だがそんな結論を出しちまうのも新たな退屈を生むだけだ。 ふと、思考は過去を振り返った。 しかし"人間"だった頃の記憶は曖昧だ。それでもただひたすら戦っていた記憶しかないが、学ぶと言う記憶は特に無 い。 そもそも小脳に刷り込まれた何かが戦い方や基本的な知識となってるらしい。つまりなんで俺らがACに乗って戦う必 要があるかと言えばその刷り込まれた基本的な知識の本来の持ち主がACに乗ってたって事だ。逆に言えばそいつの 知識を刷り込まれた以上ACに乗る以外に有効な使い方は無いってわけだ。 まあそう言うわけでACを使った試験が連日行なわれる。まあ試験とは名ばかりの殺し合いだが、俺はそれを生き残 った。今生きてるのはもちろんその中で生き残った奴でしかないんだが、死んだやつは同じ条件で生産されたやつで補 充されると言うから解釈に困る。 殺された奴はその補充された奴と個体として同じなのか、だ。 まあ俺以外の奴は存在する価値も無いゴミ屑だ。同じでもそうでなくても同じか。 思考を閉じる。 ただ時間の経過を待つ事にした。 人工脳髄に時間経過のタイマーを設定し、必要の無い睡眠へ、移行する。 男は見覚えの無い場所で目を覚ました。 三十台半ばで、あるのか無いのかはっきりしないほど短い黒髪。それと同じ程度の無精髭が鼻の下から顎先、もみ あげまで伸びている。 彼はベッドで寝かされ、見上げる天井では正方形の照明がその明かりを灯さずに佇んでいる。 ここは白い壁に囲まれた個室の病室のようだ。窓から射す日は高く、時刻は昼頃だろう。 右手首には冷たい感覚があり、それ以外の全身の感覚ははっきりしない。だが、実感出来る事があった。 「ははっ、あれで生きてたのかよ」 突如現れたディソーダーの群れ。地上も上空もその甲殻に埋め尽くされ、本来の目標であるヴィクセンは影も無い。 そして上空から放たれたビームの雨にフレンダーも音を上げ、強烈な衝撃、そこで記憶は途絶えている。 ベッドの右側には一瞬人のようにも思えたが五リットルは有りそうな大きな供給筒を携えたアルミ柱が彼を見下ろして いた。点滴されているのか。 彼は状態を起こす。そして供給筒に表記されている内容物を確認してみるが、彼に理解できるわけが無かった。 まあ栄養剤と睡眠剤と言ったところだろう。いや、全身の感覚が鈍いため麻酔や痛み止めの類が入っているのかも 知れない。 何にしてもやはり無事ではなかったのか。 彼は深く息を吐いて再び横になる。そしてその時初めて違和感に気がついた。左手で探ってみるとやはり、そうだ。 いつもしているネックレスが、無い。 彼の頭に血が上り、弾けるように上体を起こすと周囲を見渡す。しかし苛々するほどの白く殺風景な光景があるばか りで、彼が探しているものは見つからなかった。 腰を捻った拍子に脇腹に酷い痛みが走る。視界が一瞬真っ白になり、しかし今度は意識を失うわけにはいかなかっ た。痛みが引くのを待ち、ゆっくりとベッドの身体を横たえた。 くそっ 声には出せないが悪態を吐く。こんな惨めな思いをするのは久し振りだ。 痛みのする脇腹に指先を伸ばすと湿った脱脂綿の感触があった。どうやら軽い手術を受けたようだ。これではしばら く動けない。 彼が口の中で恨みの言葉をぼやいていると引き戸になっているドアから薄水色の医療衣を着たまだ17、8程度の若 い看護士がファイルを片手に入室してきた。 「あ」 と、間抜けな声を上げて彼を見つめる。 「何だよ」 彼もそんな看護士を見て鬱陶しそうに尋ねた。 自分は予定よりもずっと早く目覚めたのだろうか。彼は看護士を横目にそう思う。 「先生呼んできます。ちょっと、ちょっと待っててください」 「いや、待てよ」 もう既に病室から出ている看護士を彼は呼び止めた。これまた驚いた表情の看護士はその顔のまま振り向く。 「俺の……指輪知らねーか。ネックレスについた指輪……」 彼の言葉に看護士は首を傾げるだけだ。元々医大研修の一環として手伝っている彼にそんな事が分かるはずが無 かった。 「いやあ、分かりません」 「あそ」 彼は横になりながら溜息を吐く。 「それカルテか? だったら俺の分見せてくれねーかな。薬のおかげで自分でもよく分かんねーんだ」 「すいません。そう簡単なものじゃないんで」 「あそ」 退室した看護士を見送る事も無く彼は不機嫌さを紛らわせるために眠りにつこうとするが、どうにも眠れそうにも無か った。これで睡眠剤が入っていないのは確実だ。それともカフェインでも入っているのだろうか。 まだ痛みの残る体をゆっくりと持ち上げ、今度はゆっくりと周囲を見渡した。 どの程度こうしていたのだろうか。あまり長く眠っていた気はしないが、今は自分の感覚などあてにはならなかった。 診察台の上デジタル式のカレンダーを見つける。銀色のプラスチック台に緑色のカウンターが踊っている。 2日寝てたのか。 とにかくウラシマタロウにならずに済んだと安心する。だが1日4時間睡眠の生活を送っていた彼にしてみれ12日分 は寝た事になる。 しかし他の連中は無事だろうか。スピアー、エリー、カランタン、トイ隊長。航空部隊は絶望だ。戦車大隊はあの数だ。 知り合いがいるのかどうかも分からない。 彼が物思いに耽っているとドアが引かれる音がした。ドアから伸びていた影が少しずつ小さくなり、遂には小さくなる。 その影を縫って女性が一人入室する。 「何だ? お前も生きてたのか? センセ?」 彼はその言葉とは裏腹に安心したような声でその女性に声をかけた。 歳は30に差し掛かったあたりで、フレームの無い眼鏡の奥のその瞳は微笑んでいた。白衣を着ており、短い癖のあ るブロンドの髪が彼女を知的に見せた。 「俺は一体どんな怪我をしたんだい」 「そうね」 横たわったまま尋ねる彼に彼女は答えた。 「全身打撲に肋骨四本、それと内蔵損傷、だったかしら」 意外なほどの重症に彼は自身の幸運を呪った。これではしばらく動けない事は間違い無い。 「よく生きてた」 「私達だけじゃない。意外なほど生き残ってるわ」 彼女はベッドの横から丸椅子を取り出すとそれに座る。 「私は無傷だったから、お手伝いよ」 「スピアーは?」 彼の問いに彼女は首を振る。 「……あいつは」 しばらく黙り込み、思い出したように彼は口を開く。 「あいつの妹が明後日結婚式なんだ。毎日、あいつは言ってたよ。スピーチがどーのこーの。相手の男がどーのこーの ってな。今頃あっちに行ってる頃のはずだった」 そして彼は小さく笑う。 「そう、そうだったの」 彼女はあまり多くは語らず、彼の心境を察した。 「他は?」 「カランタンはもう部隊に戻ってホーイックロックスよ。トイ隊長は隣の部屋でまだ寝てるわ」 「へぇ。本当に生き残ってる」 彼は感心してみせた。確かに五人の中で四人が生き残れば上々だろう。 「リグ隊は全員戦死。航空部隊も全員。戦車大隊は半分半分てとこ」 「拠点の方は」 「ジオの侵攻があるかと思ったけどディソーダーが出たおかげで大っぴらには攻撃が無いわ。散り散りの部隊ならホー イックロックスの砲だけで迎撃出来るから、心配は無いと思う」 「虎の子ね」 それはホーイックロックスの拠点に三基設置されている常識外れの固定砲台だ。110mmの徹甲弾を秒間60発も 発射し、有効射程10kmを誇る。性質上長時間の使用は出来ず、近距離となれば使用は出来ないが、MT中隊程度 ならば10秒足らずで殲滅してしまう。しかし本格的な進行となれば炸裂兵器で無い分弾幕を張るしかないがそうすれ ば本来の機能は発揮出来ない。あくまでプレッシャーとして存在しているのだ。 「ここは?」 彼は病室の窓に視線を移しながら尋ねた。窓からは穏やかな青空が望むばかりで辺りの様子は窺えない。 「ガルの衛星都市。その病院の一つよ」 「軍病院じゃねーのか」 女性は頷く。 「ホーイックロックスの険しい山麓を行くよりこちらの方が近かったんでしょうね」 「管轄は?」 「大丈夫。エムロードだから」 「そりゃ安心だ」 彼はまだ痛む身体を持ち上げ深く息をついた。 「こうしてても流れ弾に当たる心配が無い」 やはり今の戦闘形態にあっては歩兵などは無力だ。人型であるMTやACが直立歩行を許されるのは人型であるが 故の重装甲にある。特に内骨格まで備えるACの耐久性は圧倒的だ。ライフル弾の一撃で死んでしまう人間とは違い、 兵器である彼らは失血死も、ショック死もしない。それに歩兵と言ってもパワードスーツのある現在では歩兵が人間とし て戦うのは余程のわけがあってでしかない。 「ヴィクセン騒ぎはどうなってる。少しくらいは打開案が見つかったのか?」 「それも大丈夫みたい」 その質問を待っていたかのように彼女は表情を明るくして答える。彼にとっても朗報が期待出来た。 「昨日に入ってからその類の話は無いわ。もちろんメディアは今でもその話題で持ち切りだけど、具体的な被害は報告 されてないわ」 「朗報だな」 確かに朗報ではあった。だが、彼の中にはまだ釈然としないものが残っている。 「詳しい話は?」 「この事件について公式な見解はまだ無いみたい。ヴィクセンの所在にディソーダーとの関係、被害の大きさは分かり きっていないし、今度の復旧の目処も立ってないみたい。また地球政府に非難が集中するでしょうね」 その原因がはっきりしてないのなら尚更、彼は苛立ちを募らせるしか無い。今までは戦いで不幸がある度にその怒り をぶつける具体的な対象があった。レイヴン、各企業、個人。しかし今回は違う。イナゴの大群のように現れたそれが 過ぎ去った時、何に対して怒りをぶつければ良い。イナゴか? それともイナゴの大群を作り出した"何か"か? 「ウラシマタロウになった気分だ」 「ウラシマ?」 聞き慣れない言葉に彼女は思わずその言葉を反復した。彼は心の整理をつけるように再び深く息を吐くと答えた。 「ウラシマタロウっていう漁師がいた。そいつがある日漁に出かけると一匹の亀が裏返しになって浜に打ち上げられて た。こいつは可哀想だとウラシマタロウはそいつを助けた。すると亀はお礼にって海の宮殿に招待した」 「何よそれは」 笑いながらその話はおかしいと言う彼女を無視して彼は続けた。 「そこはパラダイスだった。ウラシマタロウは三日三晩遊び、そして地上に戻った。だけどいつの間にかそこは見慣れな い土地になってた。なんとそいつが海で遊んでいた間に三百年の月日が流れてた、そういう話」 「つまりどういう事?」 最後まで聞いても彼が何を言いたいのか分からなかった。直線的に物事を言う彼にしては珍しい事だ。 「少しばかり寝てただけだと思ってたのにオメーに聞いてばっか。情けねーったらねーよ」 「愚痴らない」 そんな事かと彼女は笑う。彼にとっては二日は三百年と同じだと言うのだろうか。 「ウラシマタロウはその後どうしたの?」 「知らねー」 どうでも良いと彼は投げやりに答えた。 「どうせろくなもんじゃねーよ」 それにこの話がいつのものか分からないが、今では三百年もあれば世界が変わる。もしその三百年後というのが今 ならばウラシマタロウはさぞ驚いただろう。今から三百年後となればこの世界があるのかどうかも疑わしい。 もうしばらくこんな所にいなければならないという憂鬱と己の無力感で彼は脱力していた。寝ていたというのにもう疲れ てしまっている。だがこういう時に限って眠気は引いた潮のようになかなか戻らないものなのだ。 視線を泳がせていると彼女の薬指にはめられている指輪に気がついた。純金製で表面には文字が刻まれ、そこにプ ラチナが流し込まれ白く煌く文字を形成している。それが何と書かれているかは遠目には分からないが、彼には見なく とも分かる。 「まだそんなもんしてんのか」 アルバート・ギュスタフ。彼の名だ。 「もう終わったんだぜ。俺らは」 呆れたように彼、アルバートは言う。どういうわけか、その口調は冷たかった。 「預かってる物があるの」 しかし彼女はそう言うと、白衣から何かを取り出した。軽い金属音と共に取り出されたのは銀色のチェーンと、それに つけられた純金の指輪。これにも文字が刻まれ、白金が流し込まれていた。 エリザベス・ギュスタフ。彼女の名だ。しかし、姓は違う。この指輪はその時のためのものだったのだ。 それを見てアルバートは口の中で、なるほど、とぼやいた。まったく、面目丸潰れだ。 「だったら返せよ」 エリザベスは彼に促されるままそのネックレス、そして指輪を渡した。彼の掌でチェーンがチャリチャリと金属音を立て た。 アルバートは両掌でそれを遊ばせた。指輪は灯りに照らされ煌く。かつて王の金属と呼ばれたそれは太陽光のように 生きた光を発する。今では土と海水から生成され、兵器や電子機器の電力回路に使用されるのが大部分だ。 「アルこそ、まだ大事にしてるのね」 彼女はまるで彼を茶化すように言うのだ。 「当り前だろ」 しかしアルバートは極真剣に言い返した。 「一個二百万ドルだぜ」 どちらも世界に二つと無いオーダーメイド品だ。その程度して当然だった。 「ん?」 彼はそう言いながら薬指にはめようとした。しかし途中で止めて指をじっと眺めた。 「少し痩せたか?」 「そうね、確かにそのくらいしたかしら」 彼の言葉を遮るようにエリザベスは静かな顔で、しかし強い調子で言った。 「でもそういうものじゃないでしょ」 「じゃあ、どういうもんだってんだよ」 うんざり、と言った様子だった。まともに取り合おうという気は無いようで、その視線は窓の向こうに向けられた。無駄 に爽やかな青空を白い雲が漂う。あの雲になれたらどれほど快適な事か。アルバートはそんな幼稚な空想をする。 「もう何年も前の事だし、蒸し返したくないけど」 「だったら黙ってろよ、ウゼぇな」 あまりに投げ遣りな態度にエリザベスはさすがに感情的になった。整った顔に皺を作り、声を荒げる。 「あなたはいつもそうなのよ。大事な事は何も言わないで。いつまでレイヴンを気取ってるつもり!?」 アルバートは答えない。顔色一つ変えず、窓から望む空を見ていた。 「私のためにレイヴンを辞めたって……、あれは嘘だったの……?」 そんな彼に絶望したように、彼女は呟くように言う。 別れを切り出したのは彼だった。分けも語ろうとはせず、一方的なものであった。彼女に思い当たる事は無く、結婚の 約束をした後だけだっただけにそのショックは今でも尾を引いている。その後は友人として付き合っていたが、釈然とし ないのは今でも変わらない。 「嘘じゃねーよ」 その呟きに、目線をそのままにアルバートは呟くように返す。 「今でも惚れてるぜ」 「だったら……」 「今回は運が良かった」 彼女の言葉を遮るように彼は続ける。 「ディソーダーは動かない相手攻撃しねーけどよ、ACは違う。あのままヴィクセンとやってたらよ、下手したら死んでた んだぜ、オメー」 呆然とした様子の彼女に、語りかけるようにアルバートは言う。顔を正面に向けようとはせず、横目で彼女を見てい た。 「オメーは後ろで軍医やってりゃ良かったんだよ。なんだって攻軍に志願しやがったんだ」 彼はエリザベスを責めているようだった。思い詰めたように見つめるのは彼の握り締める両手、その先にある虚空 だ。 「私は、あなたの力になりたかっただけ。あなたの近くにいたかっただけよ……」 搾り出すようなその言葉も、彼には届いていないようだった。 いつも危険を冒すアルバートを待つ事しか出来ない不安を、自らも同じ危険にさらす事という方法でしか解消する事 が出来なかった。あまりに幼稚で向こう見ずな考えには我ながら呆れ果てる。だが、彼が何の事について自分を責め ているのかは分からなかった。 「三人目にしたくねーんだよ」 それに対する彼の返事は誰に向けて放たれたものなのか、それは彼すら知らないのかも知れない。虚ろだが、何か を見据えているその瞳は何を見つめているのか。 「何言ってるの?」 エリザベスにはそう言う他無かった。彼と言う人間は直情的だが愚かではない。むしろ知的でありながらそれを否定し ている節がある。そんな彼が感情でも、理由でもなく言葉を発しているのだ。誰にでも裏の顔はあるというが、これがア ルバートのその顔なのだろうか。 「俺ぁ、今まで三人の女に惚れた」 しばらくの沈黙の後、彼は口を開いた。まるで独り言のような小さい声で。 「最初の一人は俺と同じレイヴンだった。職場恋愛とは違うが、まあレイヴン同士傷を舐め合った仲だった。……死ん だ。いきなりな。俺の知らないところで」 彼の瞳は過去を見ていた。今などもはや視界には入ってはいまい。暗く、見つめるものを見失った瞳は既に通り過ぎ た光を捉えているのか。 「レイヴンの宿命ってやつか。まあ予想はしてた。どっちが先に死ぬかはさすがに分からなかったがよ」 そしてそれがもう十四年前になる、と付け加えた。 「俺はフライトナーズの一人になった。まあレイヴンには違いないが真っ当な人間だ。火星にはまだ行ってなかった。あ くまで地球政府お抱えの特殊部隊だ。LCCなんてもんは最初から最後まで役立たずだったからな。だが、俺自身が俺 が真っ当な人間になり切れなかった時、そいつは声をかけてくれた。今でもはっきり覚えてる。ACに乗って戦えねー毎 日に耐え切れなくなって倒れは所構わずチンピラに喧嘩を吹っ掛けてた。毎日ボロボロになるまでやりあって、そしたら 帰って寝る。そんな毎日だ。おまけに金に困らなかったからよ、他にする事が無ー。下手すりゃ死ぬまでこのままだな。 そう人生諦めてた時だった。通りかかったそいつなんて言ったと思う?」 突然のように話を振られ、エリザベスは何も答えられなかった。しかし彼も答えなど求めてはいなかった。やはり過去 を見つめる瞳には彼女の姿は無く、問い掛けたのは自分自身だったのだろう。再び口を開いた。 「怪我してますよ、だとよ。見れば分かんだろうが。だが、何ヶ月かぶりに見た手前ぇの面は酷いもんだったよ。そこか らはよく覚えてねー。その場で腐抜けちまった俺をそいつは看病した。そこがどこだったかはいまいちはっきりしねー。 俺ん家だった気もするが、違うような気もする。とにかく何日も世話になってよ、いつの前にか俺はそいつに惚れてた。 名前も知らねー女だが、確実にな。俺もまともになってきて、そろそろそいつと話の一つでもって時だった」 彼は空を仰ぎ見る。過去しか見えぬ今の瞳には何が映っているのか。 「死んだよ。交通事故だったらしい。詳しくは知らねーが、そいつとはそれで終わりだ」 エリザベスは絶句する。 何と言う事だろう。彼がこんなにも絶望していたとは。今の彼の性格もこんな過去があって歪んでしまったものに違い 無い。ならば自分の存在は彼にとってどういうものだったのだろうか。 「まあ、狂っちまいそうだったが、運が良かった。そのあたりから色々騒がしくなってな。そのうちあのレオス・クラインの 乱。忙しいわ死にそうだわで何も考えずに済んだ」 彼は溜息を吐いた。しかし次には彼女をしっかりと見据え、微笑んで見せる。その瞳は間違い無く彼女を見ていた。 「で、グレートブリッジでお前に助けられたってわけだ」 彼女の記憶が彼と共有出来ているのはそこからだった。戦後調査のためにかつての軍事拠点であるザングチシティ を調査中、全てのACの中で彼だけが唯一生き残っていた。 「お前で三人目だ。今度は死んで欲しくねー」 それが彼の本音だった。もうこれ以上狂うような思いはしたくない。だからそのためにも他人である必要があったの だ。 「分かるか?」 だから彼は彼女との関係を断ち切った。しかし身近にいる以上やはり他人であり切る事が出来なかった。 「分からないわ」 彼女は素直に言う。分からないのだ。 「でも、私にエムロードを出ろって言うならそうする。私もあなたと一緒にいたいのは同じだから」 しかし自分の気持ちを伝える事は出来た。彼が何を考えているかなど関係無い。自分はただ言いたい事を言う。今 の彼のように。 「そうかい……」 アルバートはその言葉を聞くと力が抜けたようにベッドに倒れこんだ。ばふんと綿から空気が抜ける音が耳に心地良 い。 そうして二人は沈黙し、窓の向こうで吹く風の音を聞いていた。こうしていられる時間がとてつもなく懐かしい。 しばらくしてあの若い看護士が同様に若い医者を連れて戻ってきた。歳は二十台半ば。四角いフレームの眼鏡が辛 うじて彼に威厳を与えていた。 「遅かったじゃんよ」 もう随分経っているぞ、とアルバートは二人に尋ねた。とは言えどれほど経っているのか自体は時計で計っていたわ けではないので分からないが。 「いえ」 医者の男が照れたような笑顔を見せて答えた。まだどこか学生らしさが残る笑顔だ。 「入り辛かったんで」 どうやら聞いていたのだろう。エリザベスは頬を赤らめて席を立った。とても他人に聞かれて平気でいられる会話では ない。 「なあエリー」 そのまま病室を出ようとする彼女をアルバートは呼び止めた。彼女は振り返る事が出来なかったが、その場に立ち止 まる。 「お互い無職になって結婚ってのはアリか?」 そして唐突なその言葉に病室全体が凍りついたように沈黙に包まれてしまった。医者と看護士は下手な事は言えず、 エリザベスはもはや何を言って良いのか分からない。 その中ただ一人、アルバートはそれを楽しんでいるようだった。そしてネックレスから金色の指輪を外すとそれを薬指 はめてみた。痩せたと思った指にそれはぴったりとはまり、暖かな橙色の光が辺りを照らした。 自分と言う存在に疑問を感じたのはそれほど昔じゃなかった。物事が需要と供給で成り立ってるんだったら俺という 存在をどこかで必要としてる何かがあるんだろう。 だがその目的は何だ? どうでも良い。 俺はようやく自由になった四肢を伸ばしその思考を遮断した。縮んだ筋繊維が無理矢理伸ばされあちこちで悲鳴を 上げているが、医療ナノマシン、つまり生体分子結合メカをそちらを向かわせてとりあえず一息吐く。 窒素八十%。酸素十七%。アルゴン一%。残りは二酸化炭素残り諸々。 こんなもんだろ。上々だ。 周囲を見渡せば今まで見る事が出来なかった地上の風景が空間を満たしている。特別な感情は無いが、こんなもん だろ。上々だ。 死ぬ前に一度は見たいと思っていた光景だ。こう簡単に見れるとは思わなかった。 足元には乾いた土があちこちで亀裂を作っている。そこから這い出ている雑草が風に揺れて不規則に動いた。俺も どきよりも何倍も人間らしい。 ふと、風と言うものを意識する。表皮のセンサーが風の強さと飛ばされている粒子の存在を知らせる。 風が地下でも吹いている事は知ってる。施設が作ってるだの、空気の供給の際に起きるだの、そういうもんだ。で、天 然の風はと言えば自転と公転、太陽からのエネルギー照射で起きてるもんだ。人工と天然でどれほどの違いがあるの か、疑問と言えば疑問だ。 荒野ってやつか? 植物と言えば木だろうが、そいつは見当たらねぇ。こげ茶色の土がひたすら地平を埋め尽くし、 その向こうには空を侵食する山麓が太陽光を遮ってる。その反対側には白い月が幽霊じみた気配を漂わせ、紺色の 夜を引き連れながら太陽を地平の向こうへ追いやろうとしてる。 天井は無い。あるのは空間だけだ。拡張された俺の感覚に見合う素晴らしい開放空間。 これ以上の戦場はそう無い。 今も昔も戦いの舞台だった地球という惑星。なるほど、実際目にしてみれば分かる。自由に使える上下左右。ACは 元々閉鎖空間で戦うためのもんだがそんな事はどうでも良い。 俺はこういう場所で戦ってみたかった。 だがそんな無垢な感動をぶち壊す無粋な屑鉄どもが俺を取り囲んでる。全高は俺の倍近い。重量はおよそ十倍か。 俗にパワードスーツと言われる強化戦闘服を着込んだ馬鹿が六人。右腕に仕込んだパルスビームの砲を俺に向け て照準を離さねぇ。対AC戦闘でも使われる物だ。さすがに一瞬で昇華、そのまま地下よりももっと深い場所に逝っちま う。ここは大人しく従うのが正解だ。 表面はクロムモリブデン、その下はアルミ繊維の強化服ってところか。何で出来てるかまではさすがに視界で判断は 出来ねぇ。少なくとも俺の腕力でどうにか出来る代物じゃない。 こいつは正確には着る、ではなく他の兵器同様乗る物だ。中心に人間が乗ってそいつの動きが全高三mの人型機械 にそのまま伝達される。推進する時はブースト、と一言。攻撃にもファイヤ、の一言で事足りる。腕力は軽戦車の装甲 なら簡単に貫き、推進時の最大速度は時速二百kmを超える。広域空間での戦闘時は更にアタッチメントが装備され て追加推進装置、ミサイルランチャー、弾倉が追加される。もちろんACよりも人に近いマニピュレーターには他にも 様々な武装を搭載出来る。戦闘能力は高いが維持が大変だったり、装備出来る人間は体格がある程度決められてい たり、中々使いどころは難しいらしい。一度使ってみたいものだが、今俺を睨んでるのがそいつだと思うとその気も萎え る。対戦車拳銃の一丁でもあれば少しは反抗も出来るんだろうが、さすがに自殺行為だと自分に言い聞かせる。 そいつらの一人が何やら隣の奴と話している様子だ。空気の振動が外に漏れないため何を言ってるかは分からん。 傍受する。 『で、こいつとあっちのやつを鉢合わせさせんだとよ』 案の定電波を拾えばそいつの言っている事がもう一つの耳に届いた。情報受信という形でも結局空気の振動を脳が 分かりやすく解釈している音とでは大した違いは無い。 『ああ? どういう事だよそりゃ。上の指示か?』 『みてぇだ。多分見えの張り合いってところだろ?』 なるほど、随分と楽しい話をしてるじゃないか。あちらの方がどういう面をしてるのかは興味がある。そいつも俺と同じ ように手前と同じ面を見ながら戦い続けてきたんだ。少しは骨のある奴だろう。それともそいつも俺と同じ面なのか? だとしたら冗談を通り越して笑うしかない。 『で? どうすんのよ』 『このまま所定の場所に連れてくんだと』 『どこだい』 『おい』 話の途中に別の情報が割り込む。この中の一人か。 『こいつに聞かれてるぞ』 『マジ?』 気付かれたようだ。ラジオランプでも表示されてんのか? 『こいつは電波が聞けんだよ。話は有線でしろ』 『あー、気味の悪ぃガキだねぇ』 そこで情報が途切れる。そしてそいつは中指に当たるマニピュレーターの先からコードを引き伸ばすと隣の奴にその 先端を渡し、隣の奴はそれをマニピュレーターの掌に当たる部分に差し込んだ。なるほど、有線会話ってわけだ。 しかし気味の悪ぃガキとは言ってくれる。ガキ相手にそんなもんを着込んで取り囲む手前らよりは幾分かマシだと思え るが。 パワードスーツが作る壁の向こうに巨大な輸送車両が見える。キャリアーリグだ。表面に艶の無い緑色の塗装がなさ れ、まるでそれだけがはめ込まれたかのような不自然な巨体が景色に溶け込む事無く、隠密性を無視した糞喧しい機 械音を発してる。 そして同じような喧しい音がもう一方から。センサー範囲外だが、おおよその位置は予想出来る。 振り返れば少しばかり遅れてきた同系のキャリアーリグの巨体が見えた。まるで山が動いてるようにも見えるそいつ は、確実にこちらに向かっている。こちらは艶の無い青緑色。半分が舞い上がる土煙で見えないが、俺の目にはそれ が無視出来た。 それにあわせて俺を取り囲んでいた一人が右腕を持ち上げビームの砲身を向けながら左腕で俺を促す。 逆らうのは危険だ。加えてその理由も無い。俺は促されるまま歩き始める。 ようやく時が流れ始めた。そんな気がし始めた。 コンマ何秒でカウントする人工脳髄とは関係無く、そう感じた。 ニコライはすでに手伝いとは言えなくなっていた患者の往診と治療を終えて、受付ロビーへ脚を向けた。 彼は地上の暑さにはどうしても慣れる事が出来ずにいた。火星人と言われる彼は体質に加え地球に降りてからも地 下で暮らす日々を送っていた。そんな彼に夏と言う季節に順応しろという事の方が酷なのかも知れない。 飲食店ならば食事時に来客は集中するのだろうが、病院ならばそういうわけにはいかない。ここがカウヘレンの中心 的な病院というわけではないので、急患が引っ切り無しに送られてくると言う事は少なかった。こういう点では彼は地下 にいた時よりも研究に集中出来たが、今彼の集中力を掻き乱すのはこの暑さそのものだった。時間的な余裕か、精神 的な余裕か、どちらを取るかは今の彼には判断出来ない。 まあそれも良いだろう。あまり根を詰めすぎると仕事もそれ以外も手がつかなくなる。 彼は医者という職業に押し潰された人間を何人も見てきた。責任と能力が釣り合っていない者、死人に感情移入して しまう者、臓器に慣れる事が出来ない者。特に二世の医者などはよく聞く話だが多くの場合使いものにならない。そして 鬱病は彼の専門外だ。坑鬱剤を渡す以外に治療は出来ない。しようとも思わないが。 ガラス張りの天井から射す太陽光を避けるのはまるで吸血鬼にでもなった気分だが、血を吸う人間が日光を浴びて 灰になるという化学的根拠は全く無い。堂々とすれば良いのだ。 「この病院にはクーラーは無いのですか?」 ニコライは受付で扇風機に当たりながら慣れない手付きでコンソールを叩いている女性にそう声を掛けた。実際にあ る事は知っているのだが、それが動作しているのは見た事が無い。 「こんにちは」 そんな彼の挨拶に深い意味が込められていないという事を知ってか知らずかその女性は穏やかに挨拶をするだけだ った。しかし彼女の笑顔を見る事が出来ればそれも気にはならない。 「ヒートポンプが故障してしばらく使えないみたいですよ」 「そうですか」 冷房"も"使えないのか。ニコライは顔には出さずにウンザリした。まだエレベーターの修理も終わっていないというの にまた新たな綻びが生まれたのだ。そもそも修理作業が行なわれているのを見た事が無い。修理業者が怠職務慢な のか、そもそも修理を要請していないのか。医者という観点から見てもこの高温で治療を行なうというのは頂けない。下 手をしたら傷口がすぐさま腐敗してしまう。 「私は地下で仕事をしますが何かありましたらすぐにお呼び出し下さい。おそらく剖検室か資料謁見室にいると思うので 連絡はそちらへ。放送はいりませんので」 まあそれは良いとニコライは彼女に用件を伝えた。 少しばかり変わった死体の研究を頼まれたとは言え、今人手の足りない状況では彼の手も絶対的に必要だった。給 料も貰っているのだから尚更手を抜くわけにはいかない。それに助ける事の出来る人間を余裕が無いという理由で見 殺しにする事は彼には到底出来なかった。 「はい、内線の指定番号は必要ですか?」 彼女は有能なようだ。どんな事にでも気を使いその上美人ときている。これでコンソールの操作が人並みなら完璧だ ろう。 「ああ、いえ。私はここの正規の医者ではありませんし……」 「おーい!」 ニコライがその申し出を断ろうと話している途中に無粋な低い声が二人の間に割り込んだ。小さい声に感じられるが それは遠くから発せられたからだろう事はすぐに予想が出来た。 声のする方向へ視線を移せば案の定死体安置所の管理人が手を振りながらこちらへ走っていた。運動不足な不健 康且つ重い体を引きずりながら向かう姿はニコライよりもよほど地底人という言葉が御似合いと言えた。 「どうかしましたか?」 おそらく歳は自分よりも五つ以上も下であろうその男にニコライは実に紳士的に尋ねた。普段ならば何の気兼ねもせ ずに話すところだが彼女の前ではそうもいかない。 「あ、あんただったよな。さっき資料謁見使ってたのは」 その小太りの男は彼の前で止まると肩で息をしながらそう尋ねた。赤いシャツには汗がへばり付き朱色のシミを作っ ている。 「もう何時間も前になりますが、どうかしました?」 そこでは研究資料、つまり人体と言う媒体を使ったナノマシンが安置されていた。そのオーバーテクノロジーによって 作られていると思われるそれの性質を見極めるにはそれが最も有効、且つ効率的であったからだ。電子顕微鏡で二十 四時間、その動きを監視し、その働きを見極める。新型病原菌の研究でも有効な手段だ。彼はそれを今朝用意し、少 し前に行った強化人間の解剖によって採取したナノマシンにそれを設置した。もちろん死刑囚を使った人体での実験を 行い、その許可もとってある。 「どうもこうも、とにかく来いよ!」 小太りの男は説明も面倒だと言わんばかりにニコライの羽織っている白衣の袖を引っ張る。しかし彼の体はびくともし なかった。 「鍵は?」 そして短絡的に尋ねる。おそらくアルバイターの一人であるその男が重要な施設の鍵をそういくつも持っているとは思 えない。 案の定小太りの男はしばらく訝しげに彼と受付の彼女の顔を見比べ、 「無ぇよ」 とだけ答えた。 「リサさん、資料謁見のキーをお借りできますか?」 そんな男に対しニコライはあくまで紳士的に振舞った。軽く右手をリサの差し出し、鍵を貸すように促した。 リサはやや慌てながらもカウンターの下にあるキーハンガーにいくつも掛けられている鍵の中から一つだけを外して 彼の手の平に差し出した。それにはB2−12と彫られ、金属の光沢を乱反射させている。 「お借りします」 それを受け取り彼は微笑みかけると男を置いて小走りで階段へ向かった。男も慌ててそれを追う。 夏の湿度のためかやや粘着質となった通路を歩き、暗闇の巣食う地下階段へ足を掛ける。行き場を失った足音は更 なる地下へ反響し、不幸な死を遂げた死者の雄叫びを思わせた。 「それで、一体どうしたんだ?」 一階分の階段を下りるとニコライは振り返り、息も絶え絶えの男に尋ねた。当のニコライは汗はかいているが火星人 らしからぬ体力で涼しい顔だ。 「いやな、資料謁見で何かが割れる音がした」 普段身体を動かしていないのだろう、彼は手摺りに体を預けるようにしながらそれに答えた。 「音? 遠心機じゃないのか?」 「そんなんじゃねぇ。まんまガラスの割れる音だ」 なるほど、聞き間違える音ではないだろう。 「資料謁見はどうなっていたんだ?」 男が自分に並ぶのを待ってニコライは再び階段を降り始めた。長身である彼は階段を二つ越えて階段を降りるため それを追う男は必要以上に大変そうに見える。 「何か飛び散ってたみたいだったな。覗きガラスはからはさすがによく分からなかったけど」 彼の言葉にニコライは歩みを止め、険しい表情を作った。 「それはまずいんじゃないか? B警報は無かったのか?」 B警報とはつまり生物的汚染、バイオ・ハザードが発生した可能性、または今後する恐れがある場合に発せられるア ラームの事だ。そう言った危険病原菌、または危険物質、毒物が保管されている施設の空気循環フィルタにその物質 が発見された場合アラームがなるように設計されている。この場合周囲は閉鎖されるよう何らかの措置がなされるか、 人の手によって周囲の人民は避難させる必要がある。 「そういうのは無かった」 「フィルタの大気組成は?」 「悪ぃけど化学式ってのは分かんねぇんだよ」 少なくともここは病院だ。そう言った危険は少ないだろうが、彼も医者の一人だ。特にこういった事に関しては慎重なく らいがちょうど良い。 「一応ガスマスクが欲しいな。どこにある?」 ニコライの問いに男はさあ、と気の乗らない返事をした。 ガスマスクで微小な病原菌に体内侵入を防げるのかという問いにはクエスチョンマークをつけてしか答える事は出来 ないが、気休め程度には必要に思える。だが、無いのなら無いで不安の抱えながらの探索もある意味では悪くないだ ろう。 あくまでもある意味で。 薄暗い地下通路を進み、剖検室、死体安置所を一瞥しながらそのまま直進、通路から見て正面に今までとは二倍近 い大きさの左右開閉ドアがここだけが特別だという事を暗に示している。白いドアの上では案の定監視カメラが機械音 を発しながら二人を見つめている。 「……匂うな」 ニコライは僅かな刺激臭と腐敗臭を感じた。この様子ではこのドアの向こうはとてつもない事になっていそうだ。だが 肝心のB警報は無いようだ。ドアに張られた強化プラスチックの向こうでは更なるドアと、そのドアの向こうの異変が窺 える。 「名前は?」 ニコライはそのドアの横に設置されている情報端末に手を掛けながら尋ねた。 「俺か? リックだ」 男はリックと名乗る。しかし肝心のニコライは黙ったまま端末を操作していた。 ザムで使っていたものよりも幾分か古い型だ。だが操作自体はそう変わらない。液晶画面に浮かんでいる文字を叩 き、しばらく待つ。そして表示された。 「えぬえいちすりー、えすおーふぉー……」 NH3、SO4。 アンモニア、硫黄。 アンモニアが空気中の20%近くをそれが占め、硫黄が10%。窒素、酸素は少ない。アルゴンの濃度も微妙に高く、 少なくとも人間が活動出来る大気組成とは言い難い。 「……火気厳禁だな」 悪性病原菌の存在が無い事を確認するとニコライはフィルタを通さない高速換気をするよう命令し、白衣からマスクを 取り出した。マスクと言っても術中に口から物が飛び出さないようにするためのものに過ぎないが、これくらいは必要だ ろう。 「ならリック、誰か清掃員を呼んでくれ。それと出来ればそれなりの装備も必要だと釘を刺しておけ」 そしてそれを装着しながら言う。 「ついでに地下で止まっている換気扇があったらつけてくれるとありがたい」 「で、どうなってんだよ」 指示されている事よりも今の状況の方が気になっているのかリックはその場を動かずニコライに尋ねた。なにやら期 待しているような、そういう顔だ。 「行け。下手をしたら死ぬぞ」 しかしニコライはそう、彼を突き放す。案の定、死、という言葉にリックは動揺を見せた。 もちろんそんな危険は無い事をニコライは知っている。だが、何の知識も持たない者はこの一言で逃げ出すだろう。 人間とはそういうものだ。自分に無い者は他人で補うしかない。しかしそれさえ嘘ならばそれで終わりだ。 「あー、分かったよ」 やはりリックは腰が引けたのかそう言い残し通路を戻って行った。明かりがあるとは言え暗い地下通路の中、次第に その背中はおぼろげになっていった。 それを見送るとニコライは預かった鍵を銀色の差込口に差し込むと回す。カタンとアナログな金属音と手応えを確認 し、抜き取ると奥に入る。 酷い匂いだ。刺激臭と腐敗臭は先程よりもはっきりとした形で彼の嗅覚を刺激した。さすがに顔をしかめ、マスクで覆 った鼻と口を更に手で覆う。しかしそれもあまり効果は期待出来なかった。 あまり長い時間はいられないな。 ニコライは三分、と軽く見積もりを立てて分離室を見渡した。 天井の換気扇から資料謁見室で発生した空気が送り込まれている。フィルタ越しでこれだ。この先はどうなっている のか、答えは単純だ。 ここよりも酷い。 ニコライは落ち着けと自分に言い聞かせる。しかし深呼吸をしてはいけない。下手をしたらそのまま気絶する。 鍵を白衣に戻し、この病院から与えられているIDカードをシャツの胸ポケットから取り出す。先程よりもやや小さいが 厳重に閉鎖されているゲートが外部者の侵入を拒んでいたが、ニコライはそうではなかった。灰色の壁に設置されたカ ードリーダーにカードを通すと分離室のあちこちから消毒ガスが噴出し、遅れてゲートが左右にゆっくりと開いた。 途端、強力な刺激臭が流れ込んできた。それは質量的にさえ彼を襲い、鼻腔が刺激物を塗りこまれたように痛んだ。 だがここで焦って呼吸をしてはいけない。これは空気が新しい行き先を見つけたため、勢いよく移動したために過ぎな い。換気も行なったため奥はもう少しマシなはずだ。 ニコライは口に当てた手をそのままに資料謁見室に進む。遠心機が機械音を発し、足元では散乱したガラス片を踏 み付ける感覚とそれが砕け、割れる音がしている。 アンモニアは無色、硫黄は気体となった場合薄いクリーム色となる。それに対し通常大気の大部分を占める窒素と酸 素の比率が低くなっている。そのせいか視界は僅かに曇り、彼は余った左手で目の前の空気を払った。しかし、効果の 程は感じられない。 ダクトが空気を吸引する機械音の中、飛び散った破片がどこのものだったかを見つける。 正確にはここは実験をする場所ではなく、実験したものを保管する場所だ。その実験物を保管する棚は弱い蛍光灯 によって照らされ、実験物を収めたガラスの容器が幾つも陳列されている。 その中、ガラス容器の一部が床に転がっていた。それが上下あるうちのどちらか、一見しただけでは分からない。し かしその匂いは紛れも無く、それからしていた。 容器にはシールが張られていた。白いビニールシールに黒のマジックで文字が書かれている。それは彼特有の癖の あるアルファベットでこう書かれていた。 nmsb 彼にしか分からないまるで暗号のような文字列。それを書いた本人にはこう理解出来た。 ナノ・マシン・サンプル・バート よりによってこれか。 机の上に幾つも置かれている薄いゴム手袋を右手にする。これから手術をするわけでもないというのに彼はそれ以 上に緊張していた。 下手をすれば死ぬ。 彼の言った口からのでまかせが真実にならないとも言い切れない。 理屈ではない。不安だ。 この容器の中で起きた何らかの化学変化、いや、ナノマシンが起こした何らかの働きが今回の騒ぎの原因と見てま ず間違い無い。 彼はそのガラスの容器を手に取ると周囲を見渡した。この容器をどこに置いたかを思い起こし、見ればやはりそこか らガラスは飛び散っているようだった。容器のもう一片はそこに取り残され、二つを繋げていたバインダは無残にも破 壊されていた。 この容器の中で起きた化学変化でアンモニア、硫黄が発生、体積が増え容器を破壊、容器の上部を吹き飛ばした。 こんなところだろう。 アンモニアも硫黄も人体形成には欠かせない物だ。ナノマシンの作用によって発生するのは理にかなっているし、納 得も出来る。この程度の量なら液体の状態とすれば大した事は無い。十分体内の生命活動の中で浄化されるだろう。 問題はナノマシンは一体どんな役割を持ってこんな事をしたか、だ。 彼は内科の人間ではない。そのためナノマシンに対する知識も常人より幾分かマシ、程度でしかない。今はまだ今回 の出来事についても十分な答えは出せそうに無かった。 ふと、彼は鼻腔と唇に熱いものを感じた。 鼻からの出血か。 三分と言う見積もりは甘かったと顔をしかめると今更激しい頭痛に気付く。まるで頭部に巨大な鉄杭でも刺されたか のような苦痛と違和感に足元がおぼつかないながらも、机の上に手袋と容器を戻してその場を後にする。 鉄杭なら良い。その正体がはっきりしている。 だが、こんなわけの分からないものが体中にあって、その事自体には気付いているとしたら……。 自分が自分であろうかという不安。 ここにも彼の知る二人の男の間に共通点が出来上がってしまった。 目の前にガキがいる。 見た目、俺よりも背は20近く低い。11、2程度か。背は頭一つ分足りない。髪は薄い茶。少なくとも俺とは似ても似つ かない容姿だ。 なるほど、俺とは違う人間ってわけだ。 そうじゃなくちゃな。 ここまで来て俺もどきじゃあこのまま狂いかねない。 俺達の周囲をパワードスーツが取り囲んでいる。どっちも代わり映えしないクローム製だ。ただ違うのは右腕の武装 がビームじゃなく機関砲だって事か。肘あたりから延びる弾倉チェーンがバックパックまで繋がってる。対人武装か。 相手側のやつとこう面を鉢合わせちゃいるが一体何の意味があるのか分からん。話をするでもなく、このまま殴り合 いを始めさせるわけでもない。まさかパワードスーツどもが手前らの優劣を決めようとも思わねぇだろう。 遥か前方、後方にそれぞれキャリアーリグ。ディーンドライブとホバーの喧しい機械音は荒野を振動させる。強化聴覚 はこういう馬鹿でかい音にはあまり強くない。聴覚の強化ってのは小さい音が大きく聞こえるような単純なものじゃなく、 音と言う情報の詳細を知る事が出来るもんだ。つまり相対的に音がよく聞こえるって分けだが、無駄にでかい音は物質 の振動というノイズを発生させる。そうなりゃ頭に入ってくる情報量が増えて人口脳髄が入らない事を考える。情報の遮 断も出来るが、色々と面倒だ。 そもそもこの人工脳髄は脳髄なんて大層な言われ方をされちゃいるが結局シリコンの塊だ。生物の脳髄と相互的に 接続されてるだけに過ぎない。まあ、俺自身はそいつがどう繋がってるかは知らないんだが。まあ知らなくても手を動か す程度には扱える。そういうもんだ。 そしてこいつもそうなんだろう。 俺と同じ金色の目。 糞じゃない証だ。鬱陶しい前髪に隠れても多分そいつには問題無いんだろうな。なんせ他とは情報送信能力が違う。 後は送信された情報を処理すれば良い。つまり、要らないものは見えてない事にするってのも出来るってわけだ。こい つは便利極まり無ぇ。 「おい、お前」 このままってのも退屈だ。そいつに話し掛ける。もし会話がNGならこの屑鉄どもが俺にビームなり弾丸なりをたんまり と馳走してくれるだろう。そん時はそいつに従うだけだ。 「オメェにもナンバーはあんのか」 今では俺にもナンバープレートはつけられちゃいない。多分、相手側の妨害工作を防ぐためやら相手側に無駄な情 報を与えないためやら、そんなところだろう。本当のところはもちろん分からんが。 親切な質問にそいつは答えない。無粋な奴だ。聞こえないと言わんばかりのその面には能面が張り付いたままだ。結 局は俺もどきの類似品ってところか? 「答えろよ」 更に親切にそう言ってやるがそいつは例の如く静かなものだった。静かにしてるのは死んだ後で良いだろう。俺に殺 された後で良い。 だから今は俺を楽しませろ。 いつのまにか抑制を失いかけ、そいつに掴みかかりかけた時だった。ラジオ状態だった脳髄に電波という形で声が 入り込んできた。 『全員、リグに戻れ』 可愛げの無い男の声だ。電波に乗せる声くらいもう少し愛想を聞かせても良いだろうに。だが、ここにはそんな融通 など存在しない。あるのはひたすら意思を無視するプランだけ。 冗談じゃない。 俺は俺だ。 誰のためでもない。 俺は俺のために存在する。 出来ればこんな下らねぇ茶番に付き合いたくはないが、選択肢は無い。 一応あるが、もう一方の選択肢は"死"だ。こいつばかりはさすがに勘弁したい。 死んだら終わりだ。他のもどきといっしょにはされたくはない。例えそれがあの世でもな。 パワードスーツの一人が俺の背中を右手で叩こうとした。だが俺にはその様子が見なくても分かる。音と、振動と、熱 でな。もちろん後頭部に目があるわけじゃない。全身にそれ以上のものがあるだけだ。 そいつの手、と言ってもマニピュレーターだが、そいつを後ろ手で払い除け、俺は別の事に意識を集中する。 先程の電波を辿る、無線接続。人工脳髄というハードと俺というハード。それぞれの優れる点を光学神経線維と無線 信号が繋ぎ、脳髄に刷り込まれたソフトがそれを操る。それは操作するわけじゃない。しようと思えば出来る。そういう 風に出来ている。理屈は無意味だ。 この人工脳髄は無線による接続に関して言えば常に受け手でしかない。受信は出来るが送信は出来ないってわけ だ。だが、受信してる状態ならそれが接続って事になる。もちろん受信しなくても漂ってる情報を捉まえる事も出来る。 まあ、この状態なら相手側に無線送信が可能ってわけだ。情報の傍受も出来る。 俺がしようとしているのは正にそれってわけだ。ただ投げ石を受けているだけじゃつまらない。たまには投げ返さねぇ とこっちは石だらけになっちまう。それは困る。 情報っていうのは何が何だか分からんものだ。視覚、聴覚、その他のあらゆる自称の"元"だ。もちろん見る事も聞く 事も出来ない。だからそいつを扱ってる感覚ってのはこれ以上無く妙だ。もちろん、言葉で言い表すのは難しい。まあ、 簡単に言ってみれば数字の中に飛び込んだ感じだが、それがどういう意味かはいまいち手前でも分からん。 とにかくその数字の中に飛び込むとすぐさまその末端を見つけだす。こいつはイメージで説明すると数字の切れ端 か。まあ、案の定よく分からん。 00000001000100001000000000010000001000000100000000100000000010000001000 000010001000000000001000000010000010 リグに戻れ そんな情報を拾い出す。ついさっきのだ。そいつを捨ててそのまま情報を手繰り寄せるとその発信元にまで一気に到 達する。 そこには何があるのか。俺はガキのように逸る気持ちを落ち着かせるため、丁寧にセキュリティの相手をしながらそ の最深部に手をかけようとした。 しかし、次の瞬間俺は電子の手を引っ込め、情報が情報である世界に戻っていた。風が吹き、俺の周りは巨人が取 り囲み、荒野と薄暗い空。……何だ? 俺ははっきりとした"熱"を感じた。手に。いや、あくまでイメージ上の手に過ぎないが、確かに熱を感じた。それも火傷 どころか一瞬で蒸発しちまいそうな超高熱。 一体なんだったんだ? 俺の知らないセキュリティか? それともOSプロテクトか? 何にせよこのまま続けるのはリスクが大き過ぎた。しば らくは脳髄のラジオも閉じて、木偶の坊どもに囲まれながらリグへの脚を進める。 畜生。面倒だ。どうせならその無駄にデカイ体で俺を負ぶったらどうだ。せいぜい七十。見た目よりは少しばかりデカ イがそいつを着てれば戦車をひっくり返す腕力が身につくはずだ。俺の一人や二人、わけは無ぇだろう。 とは言えそんな事を口にはしない。その気になれば口にする必要も無いし、騒いだどころでどうにもならねぇ事は分か り切ってた。 そういう奴らだ。マッドな事してる割にゃ結局給料貰って働いてんだろう。だから給料以上には働くわけが無ぇ。 まあいい。余計な事されて殺されちゃ堪らん。 足元で何かが潰れる感触程度しか楽しむ事は無いが、それでもさっきの分けの分からん感覚よりは幾分かましってと ころだ。 ……畜生。 考える事が無くなるとまだぶり返してきやがった。火傷した後の痛みだ。熱さがまだどこかに残ってる。どこだ。俺のど こが火傷したんだ。くそっ。分からねぇ。全身のセンサーはちゃんと働いてやがるってのに分からねぇ。 何だったんだ? あれは。 若い男がコンクリートブロックに腰をかけ、紙に包まれたパンを頬張っていた。それはどこかの店で買った何の変哲も 無いパンであろうが、彼はそれをこれ以上うまいものは無いといった風に幸せそうに食べていた。 空は真っ青で雲一つ無い。ただ一つその青空を汚すものがあるとすればそれは太陽で、この地球にあってそれより も輝くものは何一つ無い。 その太陽に照らされて砂が金色に輝いている。砂漠の砂。地球ではない、そんな印象さえ与える灼熱の土地。しかし 実際には人間の生命活動が無くとも地球には砂漠は存在する事が分かっている。そう、砂漠は決して死の土地ではな いのだ。 その証に、そこには町があった。決して大きくはなく、栄えているとも言えない。だが、小さいながらも人の温もりを持 つ家々が立ち並び、その中央には冴えるように青い湖があった。それを取り囲むように緑色の芝が繁茂し、南国植物 が太陽光を全身に浴びている。 そして彼もまた太陽光を浴びていた。特徴的な栗色の髪が光に照らされ金色に煌く。長袖の白いシャツはこの土地で は暑苦しいように思えるが、こと湿度の低いこの土地にあっては直射日光こそ暑さの原因になる。通気性が良く、熱の 篭らない白い色で長袖とくれば理想的だ。 彼はパンを食べ終え、その包み紙をポケットに丸め込むとそれでは足りないのか、白い紙袋からまた白い紙に包ま れた物を取り出した。包み紙を開けばやはり、丸いパンが現れた。小麦色に焼けたそれは僅かに香辛料の香りを漂わ せる。それに彼は顔を綻ばせ、大口を開けてそれに喰らい付こうとした。 しかし、パンが紙袋から吐き出されるように零れ落ち、整地されていない道路を転がっていった。 「あーらーらー」 噛み締める目標を失った大口からはそんな間抜けな声が漏れた。残念、というよりはそんな出来事を不思議がって いるような声だ。 しばらくその様子を眺めていると白い犬がそのパンへ駆け寄ってきた。まだ子犬だろう。まだ身体的特徴が見えない ため雑種か何かしらの犬種かの判別は難しい。 そのパンの放つ僅かな匂いに興味を持ったのか、小さい鼻を近づける。 「あ、駄目、駄目だって」 その様子を見ていて彼は慌てたように立ち上がると駆け寄ってそのパンを取り上げた。それに白い子犬は名残惜し そうにその様子を見上げ、く〜ん。鼻を鳴らした。 「これはカレー入ってるの。お前は食べられないって」 そう言いながら彼はパンから砂をパタパタと払い落とし、座っていたコンクリートブロックまで足を運ぶ。子犬は彼を、 と言うよりも彼の取り上げたパンについてくる。 そんな子犬を横目に彼は再びコンクリートに腰を下ろし、紙袋を持つとその中を探った。子犬はその様子を不思議そ うに見上げている。 「ほら、お前はこれ」 そしてそこから取り出されたのは防腐の役割を果たす葉に巻かれたウィンナーだった。その包みから繋がった二本を 取り出すとそれを子犬の前に差し出した。それを見ると子犬は待っていたとばかりに甲高く一鳴き。 それに彼は優しく微笑むと子犬の手前に優しく置いた。 初めはその形に興味を持ったのか、幾度か前足で叩き、匂いを嗅ぐ。そして次に器用に二本のウィンナーを噛み千 切り、一本ずつにして食べ始めた。そして大きいとは言えない口で余程お腹が空いていたのか被り付く。 「へえ、頭良いなお前。天才かも。うん、天才」 その様子に感心しながら彼はその子犬の頭を人差し指でとんとんと叩いた。子犬はそんな事は気にも留めず噛り付 いている。 昔、彼は犬が苦手だった。犬が飼われている家の隣など、一人では通る事も出来なかったほどだ。何が怖かったか と言う説明は今となっては出来ない。いや、その前に理由など無いのだろう。ただ、噛み付かれてしまうのではと言う子 供の恐怖感。それは時代を遡り刷り込まれてきた記憶なのだ。他にも、幽霊、尖った物、グリーンピース、そしてとにか く苦いものだ。 だがそんなある日、彼はこう言われた。 「弱虫ロジャー」 そう言った彼女は彼の婚約者だった。婚約者と言っても意味のあるものではなく、ただ、子供と子供が無邪気に誓っ た約束。小指と小指の交わりで成立した児戯だ。だが、だからこそ少年であった彼にとっては重要であり、彼女との結 婚に対して冗談と言う感情は持っていなかった。 その約束を交わしたのは僅か五歳の時。お互い掛け算も出来ない正真正銘の子供だ。その約束をした理由も今で ははっきりとしていない。ただ、お互いに好き合っているという事には何の間違いも無い。 だから、弱虫とは思われたくなかった。好きな女性に良いところを見せたいと思う心理に歳は関係無いのだ。 手始めにペットショップに行ってみれば、そこでプラスチックケースに囲われ、自分を見つめている子犬は決して恐ろ しくはなかった。むしろ、その世界から出る事の出来ないその姿は可哀想で仕方がなかった。もし、誰も買わないのな らば彼らは一体どうなってしまうのだろう。 犬、猫、ねずみに鳥。昆蟲はある種のロボットだと母は言った事があったが、少なくとも彼らは違う。考え、思っている はずだ。 人間は他の生物も自分達と同じように物事を考えていると思う場合が多い。彼の場合も同様で、もし自分がここに閉 じ込められたらという想像で胸が締め付けられる。 そこから家への道程は長く感じた。一つの事に考えが集中し、時折道を間違え、人のぶつかり、最後の階段にすねを ぶつけたりもした。そして帰宅し、忙しい両親のいない自宅リビングのソファーに横になる。そして、今までの事を思い、 そしていつしか眠っていた。 次の日から犬は怖くなくなっていた。別に噛み付くわけじゃない、なぜかそう思えた。 この子犬はどんな思いでここにいて、生きているのだろう。 すでにウィンナーの一本を平らげてしまっている白い子犬を眺めながら、彼はそう思う。 風が吹き、どこかにあるであろう湖からの湿った空気が彼の頬を撫でた。その空気を肺いっぱいに呼吸し、吐き出 す。砂漠でこんな空気を吸える事は滅多に無い。だから、今はこうしていたかった。 子犬に負けないよう彼もカレーパンを食べ終える。 空は高く、真っ青だった。この様子じゃ一月は雨は降らないな、と彼は予想した。砂漠は多くの場合時折大雨が降り、 それきり降らないといった事がほとんどだ。頻繁に雨が降るのならそもそも砂漠になどならないし、出来もしないだろう。 「あっ、と」 それなりに食欲も満ち、彼は大きく背伸びをするとコンクリートブロックに腰をかけたまま倒れるように仰向けになっ た。背中にある固い砂利の感触はむしろ心地良く、コンクリートは暖かい。眩しい太陽光が瞑った瞳にも眩しいと知覚さ せ、それもまた悪くない。 ここでこうするのは、大体一年ぶりか。 彼はそう思う。 砂漠の中心でありながら、このオアシスは彼の行動拠点とでも言える場所であった。 ここはザーム砂漠南部、正確には町ですらなく、集落と言った表現の方が正しいか。名は無く、オアシス、と言われて いる。そのままだが、それ以外に必要が無いのだから仕方が無い。同じような町は他にもあるが、同様にオアシスと言 われているだけで名前を聞いただけで聞き分ける事は出来ない。ただ、それぞれ東西南北で言い分けられる事もあ り、多くの場合"大体"で使い分けられている。ただ、企業も地球政府もこういった集落に対しては良い感情は持ってお らず、一押しさえすればすぐにでも制圧されてしまうだろう。 だがそうされないのはここはレイヴンにとっては都合の良い場所であるからだ。だがそうはならないのは、やはり人間 としてオアシスと呼ばれているこの場所に武器を持ち込む事を嫌ってか。こんな時代でも、人間は情を忘れ切っている わけではないらしい。 だがそんな人としての情とは裏腹に青い湖の向こうに巨大な四角形が見えた。多少知識のあるものならばそれがMT であると理解出来ただろう。 エムロード製牽引型支援MTグローブフィッシュ。牽引型と言う聞き慣れない種類に分類されているのは、その特殊な 形状にある。戦闘時は脚部と砲身を開放した状態で通常戦闘を行い、非戦闘時はあのようなブロック形となる。そのた め狭いスペースに大量に搭載が可能であるため、戦場に支援と言う形で牽引されると言うわけだ。しかし、それ以上に その形状からかあのシャフターよりも維持の手間を必要とせず、スパナがあれば百年使えると言う技師までいるほど だ。まあ、それもあくまで設備が整っていればの場合だろうが。それでも比較的機密性の高いグローブフィッシュは砂塵 に対して高い抵抗力を持っているのだろう。軽く布が掛けられているだけでほぼ放置されていた。 「おい、ロジャー」 当然、頬に異常なほど冷たいものが触れ、男の声が聞こえた。 あまりの冷たさに彼は飛び起き、ブロックから落ちた腰がどしっとアスファルトに叩きつけられた。鈍い痛みにロジャー と呼ばれた彼は顔をしかめる。 「ははっ、相変わらずテンパってんな」 そんなロジャーの横に炭酸の入ったガラス瓶を片手に二つ持った男が座り込んだ。見た目、歳はそう違わない。白い タンクトップから覗く体は筋肉質で、細身ながらも逞しさを周囲に発散している。ぼさぼさに伸びた髪はそのままに、顎 からも短く無精髭が残っている。 「何だよぉ。いきなり」 ロジャーは非難の目を向けて腰を擦っている。 「飲めよ」 しかし彼はそんな事はお構い無しにガラス瓶の一つをロジャーに差し出した。 「ん、ありがと」 彼の名前はソーダイク・サジ。ロジャーがバイクでの旅を始め、コルナードベイシティを出てからは初めての友人と言 えるだろう。歳は彼よりひとつ下の21。ここで生まれ、ここで育った人間だ。 「相変わらず乱暴に扱ってるみてぇだな。チェーンも外装もやばい感じだ。エンジンはもっと酷いぜ」 ソーダイクはこの町で技師をしている。あのMTの整備をしているのも彼とその家族だ。そして、ロジャーがここを行動 拠点としているのはそのためだ。彼のバイクはその特殊性ゆえに整備が出来る人間も限られてくる。ロジャー自身、簡 単な整備しか出来ないため、今のところ完璧に整備出来るのは彼とその一家、そして造った旧友だけだ。 「ああ、それは俺も分かってるんだけど。でも本見ただけじゃ分からないよ、あいつは」 ロジャーも一時期はナインボールと名づけた相棒を詳しく理解しようとしたが無理だった。所々見た事の無い機械が 入っていて下手に手が出せないのだ。 「あ〜、ラジエーターが空冷と油冷のふたつついてんだな。そのおかげであの馬鹿でかいエンジンが何時間も動くんだ けど、そこが色々複雑でな。あ、一応言っとくけどオイルは全部入れなおしたからな。しばらくは無理させるなよ」 「うん」 ソーダイクの言葉に相槌をうちながら彼は炭酸を一気に喉を鳴らして飲んだ。氷を飲んでいるような錯覚を覚えるほ どに冷えた炭酸が心地良い。半分ほど飲み終えたところで、彼は息を吐いた。口の中と喉がぴりぴりと痺れる。しかし それも決して嫌ではない。生きていると言う実感があった。だが、不意にこめかみが押されるように痛んだ。これも生き ている実感だろうか。 「あんま欲張るなよ」 頭を押さえて悶えているロジャーを横目にソーダイクは笑いながら言った。 「まあ、ここ出りゃ砂地獄だ。分からねぇでもねぇけど」 そして遠くを見た。建物の狭間から見えるのは金色の砂丘。それが感覚的には延々と続いているのだ。特にザーム 砂漠の南部から東部は幸か不幸か朝に霧を発生させる事が多い。これは恵みとも言えるが、不慣れな者にとってはこ れ以上無い恐怖とも言える。視界を奪い、更にはこの霧は体温を容赦無く奪い、砂漠での凍死と言う皮肉な悲劇を招 きかねない。 「まあ、ね」 それを良く知っているロジャーはなんでもない風に答えた。しかしその霧で死の淵を見たのは一度や二度ではない。 だが、今ではそれを乗り切る自信は十分にある。 「今回はどの程度ここにいるつもりだ? オメェの事だからそんなに長くいるつもりは無ぇんだろ?」 遠くを見ながらソーダイクは見透かしたようにそう尋ねた。彼がここに最も長くいたのはたった一週間と言う期間だ。 それもそれは旅にまだ不慣れだった六年前。去年は三日だ。少しずつ短くなっていくその期間は、しかしけっして無駄 ではない。成長の証とも取れるのだ。 「うん、あいつが万全なら明日にでも出るつもり」 微笑み、ロジャーはそう答えた。その目線はすでに地平の向こうへ向けられている。 「そうか。次はどこ行くんだ? フォークか? まさかシザースか?」 自分で言った言葉にソーダイクは笑いを漏らした。 シザースとはシザースフォレストと言う森林地帯の事だ。地球政府の定めている人間生存を保障する区域ではザー ム砂漠から最も遠くに位置し、それでも巨大な森林を形成している。しかしその森林は恵みではなく天然の要塞として 機能し、エムロードの中でも最も重要な拠点、クレグ要塞への侵攻を難しくしている。もちろんそんなところへ行く理由 は無いし、行くとしてもレイヴンとしてだけであろう。 「いや、一度ベイシティに帰ろうと思うんだ」 ロジャーは懐かしむようにその名前を言う。 コルナードベイシティ。彼の故郷だ。長く暑い夏と、長く厳しい冬を持ち合わせる、季節を持つ都市。ネオアイザックより も先に地上都市として機能を確立させながらも、農林水産業も活発な軽産業都市である。また、アリーナが行われてい ないためかレイヴンも少ないという話だ。 「良いねぇ。海。一度で良いから見てみてぇよ」 生まれも育ちも砂漠というソーダイクにとっては広大な水溜りなどまるで異世界だ。オアシスなど想像の中の光景に比 べれば池に過ぎないだろう。 「ここも悪くないよ。湖は綺麗だし」 ロジャーはそう言い返すと建物越しに見えるオアシスを眺めた。日光を乱反射させる水の層は鏡のように輝いてい る。 「そいつは分かってる。でも見た事無ぇもんは見てぇのよ」 憧れのようなものだろう。遠くを見ながら呟くような言葉だった。 「じゃあ見に行けば良いじゃん」 「ん? あ〜」 ロジャーの何気無い言葉にソーダイクは間が悪そうに視線を逸らした。隠し事でもあるのかとロジャーは好奇心を持 つ。 「ん? 何だ何だ?」 何かしら後ろめたい隠し事なら詮索はしないが、ソーダイクはそういう人間ではない。ロジャーはそれを理解したうえ ではやし立てた。 「いや、実はな?」 見て分かるほど彼の顔は赤くなっている。単なる日焼けではない。 「俺の嫁さんがさ、子供生むんだよね。来月」 そこまで言って彼は更に赤くした。荒々しい言葉の裏には純情な若者の顔が見て取れた。 「へえ……、そうなんだ。おめでとう」 ロジャーにとっては寝耳に水。全くの初耳だ。驚きながらも、ここはからかう所ではないだろう。ロジャーは素直に新た な命を祝福した。 「何だよ……」 からかわれているとでも勘違いしたソーダイクは横目で彼を睨んだ。明らかに照れている。 「いや、本当におめでとう、だよ」 だがそんなソーダイクにロジャーは満面の笑みでそう返した。疑うのもばかばかしい、清々しい笑顔だ。その笑顔に 気圧され、ソーダイクは炭酸を口に含み、溜息を吐いた。 「名前はもう決めてるの?」 「あ?」 「赤ちゃんの」 「あ〜……」 ガキの名前ね〜、などと呟きながらソーダイクは顔を綻ばせる。しかしそれでも堪えているのか頬が震えているのが 分かった。 「まだ男か女か分からねぇんだよなあ」 ここの病院の施設などたかが知れている。性別の判断も出来ないらしい。しかし、それだけに期待も大きいようだ。 「男だったらじっちゃんの名前でライアンが良いんじゃねぇかなあって思ってんだ。女だったら……、へへ、考えてねぇ や」 未来の子供に夢を膨らませる表情はまだ若い。 「良いお父さんになりそうだな。お前」 だが、ロジャーには素直にそう思い、そのまま口にした。本当にそう思えた。もちろんロジャーにそう言った経験があ るはずも無いが、期待を込めて、そう思える。 「あぁ!?」 ソーダイクは再び顔を赤くして叫んだ。本当に顔に出やすい男だ。 「何言ってんだオメェ!」 「いや、そう思うよ。マジで」 だがロジャーはそれを楽しんでいるかのように笑顔のままだ。 「そんなに照れなくても良いじゃん」 「誰が照れてんだテメェ!」 ソーダイクはムキになって平手でロジャーの背中を何度も叩く。ばんばんと空気の弾けるような音が辺りに鳴り響い た。 「照れてるじゃん」 その手から逃れるように立ち上がりながらロジャーは再び言う。その顔はやはり笑っていた。 「あ〜、ちくしょう」 すでに手の届かないロジャーを見てソーダイクは悔しそうに地団駄を踏む。 「じゃあよ、オメェはどうだ。オメェは。なんか変わった事無ぇのかい」 「俺?」 「んだよ」 「ん〜」 言い辛そうにして再びブロックに座り込むとロジャーはポケットから財布を取り出した。赤く、ナイロン製の数十セント で手に入りそうな簡単なものだ。彼はそれから一枚のカードを取り出す。黒く、文字が日光に反射し、煌いた。 ソーダイクはそれを見てため息を吐き、 「……なるほど」 今までが嘘のようにソーダイクは黙り込み、遥か遠くでグローブフィッシュに掛けられている褪せ色の布がはためいて いるのを見つめた。 「悪ぃけど祝ってやれねぇよ」 「分かってるよ」 財布の中にそのカードをしまいながら、小さな声でロジャーは答える。 レイヴンなど、いない方が良い。だが、単なる個人が本当の意味で大きな力から人を守るためには、この方法しかな い。そう、決めたはずだった。 だが、今はその自信が無い。守るための自信ではなく、守ろうと思える自信が。 「でも、俺はレイヴンになった。だから」 「まあ、分かるけどよ」 かたりと、空いたガラス瓶を傍らに置いてソーダイクは呟くように言う。 「なりたいって言ってたしな。だからそれについてどうこう言うつもりは無ぇよ」 レイヴンにあまり良い印象を持ってはいない。最初から分かっていたが、今ではそれがはっきりとしていた。 「……うん」 それで途切れた二人の会話を埋めるように、ロジャーの傍らで子犬は大きく欠伸をし、どことなく歩いていった。その 小さい影を眺めながらロジャーは口を開く。 「あいつは?」 「……あー、なんかいつの間にかいついてんだよ。あいつの他に犬なんかいねぇのにどこから来たんだか、みんな頭捻 ってる」 「へぇ」 いつしかその影も見えなくなり、太陽と今では居住空間として使われている旧時代のビルが作り出す大きな影が日が 傾いている事を知らせる。今日と言う日ももう長くはないらしい。 「宿は、もうとったのか?」 それを察したソーダイクが彼にそう尋ねた。彼は振り向き、軽く首を振った。 「じゃあうちに来いよ。久しぶりにお前の作る飯が食いたいし、みんな喜ぶと思うし」 ソーダイクは立ち上がり、腰についた砂を払う。 「いいのか?」 ロジャーが尋ねるとソーダイクは首の辺りを掻きながら、 「それに〜……、嫁さんにも会って欲しいしさ」 今度は頬を引きつらせて表情が緩むのを堪えながら言うソーダイクはロジャーはつい笑いを漏らしてしまった。こちら は横隔膜の痙攣を止めるのに必死だ。 「何だよ……。いいじゃねぇか」 「うん、いいと思うよ」 ロジャーも立ち上がり、背中、腰と砂を払う。足元では食い込んでいた砂利が落ちる音がした。 「あ、それとさ」 「うん?」 歩もうとしていた脚を止めて、思い出したようにソーダイクは口を開いた。 「レイヴンになったってのは控えといた方が良い。別に、みんなレイヴンだからってお前をどうこう言うって分けは無ぇと 思うけど、よ。なんつーか、そういう感じで、な」 そして間が悪そうにまた首の辺りを掻くとそのまま歩き出した。その背中を眺めながらロジャーは複雑な笑顔を作る。 どのような意図があるのか、それは誰にも分からないだろう。 ただ一人、彼自身を除いて。 「おい、待てよ」 だが、雲ひとつ無い空で輝く太陽はどんなものにも分け隔て無く、その煌きを送るのだった。 結局さっきの顔合わせが何だったかの説明も無く、俺はACの前に立たされていた。薄暗いコンテナの中でも解像度 を強化して脳髄に送信する映像は鮮明だ。 なんていう事は無い中量二脚。真っ赤に塗装され、肩には9の数字をあしらったエンブレムがある。 ……なんだ? こいつは。俺に合わせるんなら13とでもいれて欲しいもんだが、意図が不明確な以上そんな贅沢も 言えないかもな。 およそ8.5m。規格兵器ACは大体その程度の大きさだ。四脚や無限車両となると一概にそうとは言えないが、馬鹿 のような重さはそのままだ。 おそらく相手も同じ武装だろう。こいつを見上げながら俺はそう予想する。 右手にはパルスライフル、左肩にはスラッグガン、右肩にはレーザーキャノン。まあ、普通は肩に乗せないような武装 がついてるが、その点はなんら問題じゃない。 スラッグガン、グレネードランチャーみてぇな実弾キャノンは発射の時に馬鹿でかい衝撃を直接コックピットに伝える。 おまけに安定制御能力以上の衝撃でACが盛大にこける。そんなわけで普通は片膝をついた所謂"構え"が必要だ。レ ーザーキャノンやプラズマキャノンも発射用意に馬鹿でかい容量を喰うからACを半分止める必要がある。 だが、俺は特別だ。そんなものは必要無い。発射の衝撃も軽いもんだし、バランス調整も自分で出来る。FCSも要ら ん。 周囲は静かなもので、あちこちで弾ける電子ノイズがいやにうるさく感じる。周囲10m、人の気配無し。まあ、案の定 監視カメラは俺に付きっ切りだが。そいつの出す熱探査線がウンザリするほど俺のセンサーに刺激を与える。まった く、テメェらもプラスになってみろってんだ。ウンザリするぜ。 ACの横に置かれていた砲弾弾倉に腰を下ろし、一息吐く。 兵器を保管するためか、ここは気温が低くされてるようだ。あちこちで低音の大気がうねっているのが分かる。逆に天 井からは僅かな照明が大気を暖めている。なんとまあ、無駄だな。これなら照明を完全に消した方が良い。俺なら真っ 暗闇でも問題無いからな。 さっさと始めさせて欲しいもんだが、またもや待ちぼうけときた。俺は更に横になり、背後にある砲弾の質量を計算す る。 さっきまであった火傷の痛みは無くなった。まあ、センサーには火傷をしたなんて報告は無かったが、俺はしたと"感じ た"。だったらしたに違い無い。あんまり人間じゃねぇ部分を信用し過ぎるといざって時が問題だ。まあ、それがいつに なるかは分かねぇが。 しかしこの戦いが終わった後は自由になれんだろうか。まあ、自由になったからと言ってこの身体、社会とかそういう もんに溶け込めるとは到底思えねぇが。それでも24時間監視付きの豪勢な生活からおさらば出来ればそれで幸せ だ。 俺は何で無しに袖を捲くり、自分の明らかに人間ではない部分を見つめる。 手首辺りから突き出た金属、そしてその先に金色に輝く差込口がある。ここに端子を突っ込む時に出るノイズには正 直吐き気がする。だが、必要な事だから仕方が無い。こいつが無けりゃ面倒な操作をたった10本の指でせにゃなら ん。本当、面倒極まりない。 がざり、と電子ノイズが走るのを知覚する。イオン化した大気が視界をくすぐる。スピーカーが出力された、そんなとこ ろだろう。 『NO13、ACに乗って通常モードのまま待機しろ』 情報の流出を嫌ってか、そのスピーカー出力は何秒も待たずに切断され、ノイズとともに消え去った。いちいち情報を 逆探査するわけでもないのに随分と用心深いな。 起き上がり、再びACを見上げる。 外装は殆どクローム製。そのくせ武装は殆どムラクモ製。両企業共倒れで今ではそんな事はどうでもいいが、今では カスタムACが主流な中でこういう組み合わせは珍しいか。まあ、戦争をした事が無い俺にしてみればそんな事を言い 切る事は出来ねぇが。 およそ縦15m、横7mの格納庫、リグに取っ付いたコンテナにしちゃウンザリする広さだ。俺はその空間から律儀に リフトへ向かい、階段を登る。足元で金属が振動して金属音を作り出す。この音は好きだ。振動が軽い分鼓膜の負担 も小さい。 コンソールパネルを操作すると足元でモーターが機動を開始した。リフトは上昇を始め、足元では赤いアラートランプ が周囲を順を追って赤く照らす。 リフト上昇を合図にハンガーからACに命令が伝達されたのが"見えた"。何重にもなっている胸部装甲板が開き立 ち、コックピットフレームが競り上がってきた。装甲間の機能は万全か。さすがにそこまでは判断出来ない。 コックピットフレームの眼前でリフトは停止した。ガゴンと機動が停止する音が反響して、喧しく大気を振動させる。 ACに乗る事自体は嫌いじゃない。もちろん動かして馬鹿をぶち壊すのは最高だ。だが、俺の場合動かす前の方に問 題がある。 リフトとフレームの間を跨いで乗り移る。この高さから落ちたらさすがに助からないが、俺はそこまで間抜けじゃない。 俺の重みで僅かにフレームが傾く。このままフレームが脱落するなんて事は無いだろうが、人間じゃないものがたん まりと詰まってる俺の体は十分に重い。さっさとシートを踏みしめ、体を翻すと倒れるようにしてシートに収まる。 シートベルトを締めながら、俺は少しばかり憂鬱になる。ここからが問題だ。 ディスプレイの下から伸びている端子を引きずり出し、袖を捲くる。 今度は溜息だ。 こういうのは速い方が良い。俺は左手で持った端子を右手首の差込口に一気に差し込む。接続が成立されるまでに 発生する情報ノイズが直接脳髄と人工脳髄を直撃する。こればかりは感覚遮断と言うわけにはいかない。俺はその永 遠にも等しい一瞬の苦痛を飲み込み、今度は左手首。脳髄を直接手で掻き回されるような感覚を無視して右コンソー ルから再び端子を引きずり出す。ケーブルを引きずる右手でそれを掴み、耳の裏にある差込口に差し込む。ここは難 しい分ノイズ発生の時間も長い。 このノイズは全身に意味不明な信号を送り、電子が暴れる感覚をその身に味合わせてくれる。冗談じゃない。 同じ用量で左コンソールの端子を左耳の裏に差し込み、シートから伸びる端子を首に一刺し。 俺は溜息を吐き、ノイズが過ぎ去るのを確認する。最初の端子を手に持ってタイムはおよそ10秒。まずまずか。 さて。始めるか。 ケーブルを介して繋がった俺とAC。俺が使いやすいようあちこちの設定を書き換える。とは言え全身スーパーコンピ ューターの塊のようなACを俺一人のちんけな人工脳髄でまともにやっていられるわけがない。いくつか繰り返した戦い で最も使いやすいと思われた設定ソースを圧縮ファイルとして保存し、今はそれを解凍中って分けだ。 その間に機体の状況を内部から観察する。関節、装甲、ジェネレーター、ラジエーター、武装、カメラ。目立った問題 無し。後は設定の方だが、こいつは神経の延長、俺が本当の意味で動かすのだからいくらでも応用が利く。全身反応 あり。オールグリーンって奴だ。 さっきのやつは待機モードがどうこう言ってたが、ACの状態は基本的に俺の気分による。攻撃したくなれば戦闘モー ド、別段する事が無けりゃ通常モード、だるけりゃ待機モードだ。今は戦いたいが、待機してろって事でテンション下げて シートにうずくまる。 目を閉じる。すると緑がかった視界に切り替わり、高い目線でコンテナ内を見下ろしている。AC頭部の目線だ。再び 視線を切り替え、コアのカメラに移行する。頭部のものより解像度が悪く、視線も低い。 コアに搭載されているのは多くの場合シングルタイプだ。一つのカメラ内に複数の対象認識レンズを搭載した収束シ ステム。蟲の複眼に原理は近い。まあ、蟲がどう世界を見てるかはさすがに想像出来ないが。 設定が終了し、視線をAC頭部のものに連動させる。そのまま手持ち無沙汰に左マニピュレーターを視線の先に動か し、一回転、二回転させる。指を握り、中指を立てる。完璧だな。 シートの後ろで唸るジェネレーターとラジエーター。視線を自分のものに戻し、しばらくその音に聞き惚れる。 これはACの心音とも言える。ジェネレーターが心臓。ラジエーターは肺腑。そいつが人工の物に取って代わられてる 俺と案外そう違わない。親しみもある。まあ、相手となればそんな事はどうでも良いが。ぶちのめる相手がどうこうには あまり興味は無い。 操縦桿を握り、離し、頭部を回転させ、無謀にもハンガーに開放命令を下す。案の定最高のプロテクト、応答しない、 という反応が返る。 退屈だ。 俺は再び操縦桿を握り、離し、頭部を回転させる。 本当に退屈だ。 「はいはい、もうしばらく静かにしててね」 そう穏やかに語りかけながら、若い医師は男の子の腕に包帯を巻いていた。その腕以外にも額や頬にも軽い掠り傷 があるが、今は我慢してもらおう。とりあえずは一番大きな傷のある腕の化膿を押さえるために消毒と包帯をする。こ れで当面持つだろう。 黒髪は短く刈っており、髭は濃い方なのか同じ長さの髭が頬にまで生えている。22という実年齢よりは幾分か老けて 見えるだろうか。袖を捲くった白衣には、アイザック・ビリー・デリースとボールペンで書いたプレートあった。男の子は彼 を不安そうに彼を見上げていた。歳は5から6程度。辺りに親族のような者は見当たらなかった。 ここはネオアイザック郊外、イーサンウエスト。今となってはその廃墟と言った方が正しいだろうか。ここはあの"ヴィク セン事件"が初めて確認された地下都市の真上に置かれる都市で、最も被害の大きい都市でもある。少し見渡せばA Cの層行型装甲が散らばっているのが分かり、ディソーダーの"死骸"が散乱している。遠方では未だに黒煙がたなび き、時折爆発音が聞こえる。その度に人々は巨大な機械同士の戦いを思い出し、恐怖する。その度に一体を監視する ガードの生き残りが、ただの爆発です、列を乱さないで、と注意を促している。 この医療キャンプでほぼボランティアで行われている治療を待つ人々が列をなしていた。夏の日照りを避けるために それぞれが残り少ない建物の隙間に身を寄せている。そしてその列の先には、白いテントが張られ、忙しそうに医師た ちが駆けずり回っている。 とは言えここは比較的軽い、骨の折れていない程度の人々が来る医療キャンプで、しかしだからこそ患者の出入りが 激しい。若く、こういった即席治療には慣れていないビリーは額に汗を浮かべながら、巻きあがった包帯を留めて男の 子の頭を撫でた。 「おしまい。配給所に行ってみて。きっとご褒美がもらえるよ」 彼が穏やかに少年をそう促した。そこに行けば少なくとも当座の食料には困らないはずだ。問題は地球政府が今回 のボランティアの大本だと言うことか。また中途半端な事にならなければ良いが。 「ねえ、先生」 「ん?」 まだ若い彼は先生と呼ばれてくすぐったそうに微笑む。 「ママも、そこにいる?」 だが、さすがにその言葉に対して笑顔を返す事は出来なかった。その言葉が何を意味するのか、嫌でも分かる。 「そうだね……」 返す言葉が見つからない。彼の目線が痛い。 「おい、終わったんだったら早くしてくれよ」 待合テントでいつまでもそうしている二人を睨むように黒い長髪の男が言う。男の子はその声にびくり、と身体を震わ せ、跳ねるようにどこかへ駆けて行ってしまった。そして誰もいなくなった丸椅子に先程の長髪の男が無遠慮にどかと 座り込んだ。見た目の歳は彼とそう変わらない。そしてだからこそ腹が立ち、そして何より、何も言えない自分に腹が立 った。 少しだけ睨みつけ、軽く彼を視察する。何て事は無い。タンクトップから覗く左肩から肘にかけて軽い打撲と擦り傷が 見える。だがそれだけだ。すでにかさぶたは出来上がっているし、これを剥がせばまだ柔いながらもしっかりとした皮膚 が出来ているはずだ。すでに治療の余地など無い。 「あんたは大丈夫。早く配給を受けてきて」 「おい、何時間待ったと思ってんだよ。何かしてくれても良いんじゃないの?」 男は図々しくそこに居座った。一体何に対して因縁をつけているかは分からなかったが、単なる気まぐれである事は 容易に想像がつく。こういった下らない人間に限って生き残るこの世の中に対していくら不満を並べても仕方は無い が、こういった事に慣れていないビリーはどうしたらいいか弱ってしまった。元来気が弱い彼にとってこういうタイプの人 間は最も苦手だ。 「変わろう」 だが、そこへ助け舟が現れた。テントをくぐるようにして現れたのはビリーと同じく白衣を着ているためここへ派遣され た医師であるとすぐに分かる。長身で短い金髪。歳は50近そうだが、なぜかトゥワイフと言う医者に似ているように感じ られた。胸にはザム、デミトリー・ヴラジーミル・イディノウとあった。 「そろそろ物が足りなくなってきたんだ。脱脂綿に包帯に消毒液に止め物に、とにかく色々と足りないと本部の方に言っ て来てくれないか」 本部と言ってもここよりも少しばかり大きなテントが張られた物置のようなものだが。 「いや、そうは言っても」 「確か君は昨日からそこに座りっぱなしじゃないか。どうせなら少し休んできたら良い」 そして肩を叩かれ、席を外すように促された。こうなっては断る事も悪いと思い、ビリーは席を立つ。すると尻が酷く痺 れた。我ながら随分と長く座っていたものだと、半ば感心してしまう。 立ち上がるとイディノウは再びビリーの肩を叩き、変わって丸椅子に腰を下ろした。その様子を先程の長髪の男は挑 戦的な目で睨みつける。 ビリーは言われたとおりにそこを立ち去り、テントを後にした。空から降り注ぐ日光はやや傾きながらも、必要十分に 彼を焼いた。さて、本部は何処かと見渡してみるが一日近く同じ場所に座って治療を続けていたので位置感覚を失って いた事に気付いた。初めてここに来た時とは少しばかり風景が違っているのもある。来てすぐの時はまだ作業用MTが 瓦礫をかき集めていた。あれほど大きな物が無くなってしまえば風景も変わってしまうのは当然か。 しばらく思案していると先程まで自分のいたテントから叫び声と共に長髪の男が逃げるようにテントから出てくるのが 見えた。何があったかは知らないがいい気味だ。ビリーは不謹慎にもそう思い、歩を進めた。 飛び出し注意の標識を見つけ、そう言えばこちらからここに来たのだったと微かに思い出した。しかし、あまり信用出 来ないのが自分らしい。足元でじゃりじゃりと砕けたコンクリートが更に砕ける音がする。MTが通った後だろうか。AC なら粉末になってしまうところだ。 標識の立った方向に向かって歩いていくとなるほど、見覚えのある光景だ。頭の空白が埋まる感覚と共に目的のテン トを見つけた。まるで蟻の巣の蟻のようにそこから人が出たり、入ったりと見ていて飽きない光景が繰り広げられてい る。 戦場とはこんな感じなのだろうか。いまいちぴんとは来ないながらもビリーはそう思った。 ともあれ、本部で医療品を調達するのが先だ。いや、注文だろうか。それはともかく休憩などして良いものかとあれこ れ考えているうちに本部のテントの前にまで着いた。 山とはいかないがテントの天井まで届きそうな段ボール箱が積まれている。それぞれ何が入っているかが油性ペンで 明記されており、それぞれがしっかりと分類別に分けられている。一番上に積まれているもののみが開けられており、 ふと遠くに目を向けてみれば空になった箱が潰されて積み上げられていた。 そのテントの片隅に受付だろうか、テーブルとその後ろには老人が座っていた。毛髪は僅かに白いものが生えている 程度で、明らかに老眼鏡である眼鏡をかけ、書類にペンを走らせている。 「あの」 ビリーはやや大きな声をかけてみた。老人とは言え、もうろくしているようには見えないが少しばかり身体が衰えてい る可能性は十分にある。 「ん、なんでしょ」 老人はペンを置いて眼鏡を外すとビリーに向きかえった。 「医療品が足りなくなってきたんで、持ってくるようにと言われたんですけど」 「ん、どこかな?」 老人が聞いているのはどこのテントか、という事だろう。 「どこ?」 しかしはて、どこだろう。自分がどこにいたのかなどさっぱり分からない。いや、分かるのだが具体的にどこだと言わ れれば答えられない。 「ええっと、あっちの方の、軽い怪我の人達を治す……」 「あなたの名前は?」 「はい?」 「名前」 「名前……」 なるほど。名前が分かればどこで働いているかも分かるだろう。ビリーはやっとの事でそれに気付き、この老人の方 がよほど頭がはっきりしているな、と情けなくなる。これも疲労のせいにしてみたいものだ。 「デリースです。アイザックから来ました」 デリースという苗字は自分とその身内の他にあった事は無いので、彼はそれと勤め先だけを伝えた。老人はそれに ふむ、と相槌を打って名簿をめくる。 「あ、あちらで休んで行ってはどうですかな?」 そのついでに老人はテントの奥を勧めてくれた。段ボールの壁に隠れて見えなかったが、そこにはベッドが並び、幾 人かがそれぞれ毛布もかけずに眠っている。 「良いんですか?」 先程同じような事を言われたが、念のためにビリーは尋ねた。 「どうぞ。あなたはもう30時間も働き詰めじゃないですか」 名簿を閉じると老人は穏やかに笑い、 「扇風機もあります」 と言った。ビリーはこれから睡眠がとれるという期待で気が抜けたのか僅かな眠気を感じた。30時間を取り戻せそう なほどしっかりと眠れるだろう。 「それじゃあ」 お言葉に甘えて、と一言でも言おうかという時に、ポケットの辺りで何かが振動した。携帯電話だ。ここずっと治療続き で気にもとめなかったが。 誰だろうとサブディスプレイを確認するとカウヘレンの医大からだった。 「はい、デリースです」 『デリース君? 私、リサです』 「ああ、リサさん」 意中の人からの電話も今では眠気の方が勝っていたのか、気の無い返事をしてしまった。少しだけ後悔するも今とな ってはどうしようもないのでそのままのトーンで続けた。 「どうかしました?」 『ああ、うん。ニコライさんが倒れちゃったの』 「はい?」 あまりに突然で意味が把握しきれなかったが、とにかく倒れたらしい。いや、それは大変な事だ。火星出身の彼の事 だ。きっと暑さにあてられたのだろう。 『でも大した事は無いみたい』 「ああ、はあ」 軽い日射病か、そんなところだろう。少しだけ安心する。 『それでね、こっちでお医者さんが少なくなっちゃったからデリース君がこっちに来る事になってると思うんだけど。話は 聞いた?』 「いや、聞いてないけど。僕が?」 少しの間携帯電話を耳元からディスプレイを確認してもメールも着信履歴も無い。安心半分、空しさ半分で再び耳に 当てる。 「いや、何にも連絡無いけど」 『そうなんだ。うん、分かった。でもそういう事になってるから、今すぐ戻ってきて欲しいの』 「今すぐですか?」 『経費で落ちると思うし』 「いや、お金の事言ってるんじゃなくて」 ふと、影が落ちた。それは移動しているのか、すぐに彼は光を取り戻した。 雲か。いや、それには速過ぎるし小さ過ぎる。ビリーは携帯電話を耳に当てたまま、空にその目線を移した。 ややその輝きに張りを欠いた太陽に映し出されたのは巨大な翼。航空機だった。音も伝わらない高高度を飛んでい るというのにはっきりとシルエットが判別出来る巨大なそれがゆっくりと、雲に紛れながら移動していた。 『どうかした?』 電話の向こうから心配そうな声がかけられた。心配してくれるのはありがたいが、今はそれに答える事が出来なかっ た。 不吉な渡り鳥。 あれはきっとレイヴンの翼なのだろう。 ビリーはなぜかそう思うしかなかった。 沈み始めようとする太陽を越えて、巨翼は彼の知らぬどこかへと羽ばたいて行った。 戦闘許可、とテキスト情報がハンガーを通してAC、つまり俺に伝達される。 やれやれ、どうせ奴らは身体を機械にした事など無いんだろう。どれだけ時間を長く感じるか、一度は味わってもらい たいもんだ。 それはさて置き、ハンガーに放せと命令を下す。いつまでもこんなもんに繋がれてたらいつ毒が流されるか分かった もんじゃない。 後ろに回した目線でハンガーが完全に外れたのを確認すると俺は、いやACは重い腰を上げる。 この状態だとACと俺との境が分からなくなる時がある。まあ、人工脳髄はすでに俺の一部になって境も糞も無ぇが、 さすがにこんな鉄屑と一体ってのは勘弁願いたい。ここまできたら人間云々の問題じゃあないからな。 ACのセンサーがまさしく神経になって、俺に情報を伝える。ちょっとした熱や、硬度。そんなもんがよくこんな鉄の塊に 分かるもんだ。まあ、どうやって自分手足を動かすのかって教える事が出来ないようにその当たりは良く分からんが。 ともあれACは立ち上がり天井に衝突しそうな巨体をそこで一度止める。それほど待たずして機械音と共に天井、正 面の装甲が降りて、格納庫が外界に開放された。 ブースターを使えばさすがに格納庫が吹き飛ぶか、大穴が空く。それでも構わないが、何をされるか分からない以上 そいつはまずい。歩行でACを荒野の地にまで移動させるとその場で待機させる。 攻撃許可はまだ出ていない。今まで下手な事をしたやつらがACに乗ったままあの世に逝ったのを何度も見てきた。 それを見てれば犬でも学習する。自然と下手な事はしなくなるわけだ。 手持ち無沙汰に、空を仰ぐ。保護バイザーに守られた二つの光学カメラが映し出した像がメインモニタと人工脳髄に 転送され、再現される。山の向こう側は僅かに赤く、しかし空は黒く、星が瞬いている。 さすがに、これは地上といった雰囲気だ。地下じゃ、特に何の閉鎖地下ではこんなものは滅多に見れない。 ああ、見た事も無ぇのに変に懐かしい。もしかしたらずっと前に見た事があるんだろうか。人工脳髄の記憶外だから、 あるとしてもよほど昔か。何にしてもこの空の下で戦えるのは嬉しいかも知れん。この辺りは自分でもいまいち分からな いが。 自分が不完全な存在だって事は良く分かってる。自分も糞も無い世界でいつのまにか身体の半分以上が機械に置き 換えられ、まともな人格が出来上がるわけが無い。まあ、そんな中でも俺は人間に近い方なんだろう。他の人形どもに 比べれば俺がどれだけマシか。ただ、その判断をしてくれるのが俺自身以外に無いのが難しいところだが。 色々と考えているうちに前方に白い巨体が見えた。と言っても構成はこっちとまったく同じ、違うのは色だけだ。あちら は見事に真っ白。担いだかどうかは分からんが演技の良い紅白って分けか。まあ、分かりやすく色で分別するのは当 然か。 その他に周囲には色々と放置されていた。人型とは少しばかり違う、人型兵器がセンサーと目視だけで2機。戦闘車 両が4機。固定式ミサイルランチャーが4基。使いたければ使え、と言うわけだろう。 特にあの人型兵器は規格外だがACだ。カオスとか言ったか。無人戦闘を前提に作られたため、有人ACよりも機体 性能は高い。だが、その高い性能と高レベルの人工知能は主力企業の共倒れによって殆ど発揮されなかったそうだ。 今では設計図も残っちゃいない、はずだ。そんなもんがどうしてこんなところにあるんだ? しばらくしていると周囲に情報が滞留し始めたのを知覚する。通信が入るか。 『これより、試験の内容を説明する。説明するほど複雑ではないがな』 だったら黙っていろと言いたいが、何度も飲み込んできた思考だ。今更ここで爆発させる事は無い。 『お前達にとっては慣れてる事だろう。戦って勝った方が生き残り、負けた方は死ぬだけだ。だが、今回は特別な試験 という事で色々と趣向を凝らしてみた。変化は何事にも必要だからな。見えているだろう。この周辺に配置されているキ ャリアーリグ以外の兵器は好きに活用してくれて良い。それでは、それぞれにとって良い結果を期待している』 長ったらしい男の説明の後、情報の送信先が変わる。どんなに偽装しようと元を辿れば分からない事は無い。 『戦闘を許可する。始めろ』 さっきよりも一オクターブ低い声だ。別人だな。 それはともかくとして始めて良いものか。 そう思っていると前方に強い光。ロックアラーム無し。高温。光波か。 超高温と超運動エネルギーの複合攻撃。ACの層行型装甲もこいつの前にはお手上げだ。一瞬で香ばしい鉄屑にな っちまう。 とは言え通常のレーザー攻撃とは違って光速じゃない。目視確認からの光速反応なら十分かわせる。 ジャンプで回避、下方向に高温を探知。だが問題無い。そのままスラッグガン照準。前方白い目標に砲撃。6発の砲 弾の飛翔確認。こんなもんが当たるような奴だったらすぐに鉄屑だ。もちろん、当たるわけは無いが。 人工脳髄からACセンサー連動、シンパス強化。周囲詳細確認。後方200、ハリアー確認。発射の反動を利用して後 方に加速。シンパス標準化。頭部後方転回。目視。推進停止。ハリアー、照準。左マニピュレーター、システム連動強 化。接触。接続。システム連動書き換え開始。前方、熱。 さすがに甘くはないらしい。 接続切断。左マニピュレーター、システム連動標準化。左方向加速。光波、ハリアーに着弾。 あれはもう使い物にならない。着弾したのはコアにあたる部分だ。重要なシステムは破壊されただろうし、ジェネレー ターの爆発もすぐだ。 案の定元々装甲の薄いハリアーは次の瞬間には火球に変わって辺りに焼けた鉄を撒き散らした。こいつに当たるだ けでも面倒だ。スロットル強化、更に加速して後退する。 被ロック確認。光波じゃない。目視。右手を持ち上げている。パルスライフルか。 スロットル標準化。左腕部エネルギー供給強化。ショックリコイルシステム開放。ブレード、プラズマ照射高速化、レーザ ー出力強化。左腕部機動直接操作に移行。プログラム連続変換。光波照射。 同時にあっち側からもパルスレーザーが照射される。予定照射点を予測して回避行動。そのついでに光波を照射し 続ける。まぐれ当たりが一つでもあれば勝ちだが、そんなに甘くない事は分かっている。ただ、こいつは食らいつつ反 撃なんて事は出来ない代物だ。ある程度動きを制限する事は十分に出来る。 人工脳髄からACセンサー連動、シンパス強化。周囲詳細確認。後方100、車両確認。シンパス標準化。頭部後方転 回。目視。 こっちの味方につけるのに掛かるのは大体1秒。中々に長い時間だ。おまけにこの機体、中々に速い。そうそう策略 を巡らす余裕は無い。もちろん正面からやり合って負けるつもりも無いが、折角の催しだ。楽しまなけりゃな。 左腕部エネルギー供給標準化。ショックリコイルシステム圧縮。ブレード、プラズマ照射標準化、レーザー出力標準化。 左腕部機動システム操作に移行。プログラム連続変換停止。 武装スラッグガンに変更。FCS起動。ロック、オン。発射。 ロックの時点でこちらの動きは予測されていたらしい。あちらは高速で横に滑ると武装をレーザーキャノンに変更。連 射しながら接近してくる。ロックアラーム無し。出方を読ませないつもりか。 武装パルスライフルに変更。FCS停止。右腕部機動直接操作に移行。右腕部エネルギー供給量増加。 パルスライフルを神経の延長線上に存在する本当の腕、ACを右腕に従わせて連射する。これに出鼻を挫かれたの か、白いACは全身を留めると再び側面取りの横動きに切り替える。 武装レーザーキャノンに変更。FCS起動。 処理中に敵の武装がスラッグガンに変更されるのを目視で確認する。砲口が光る。6発の砲弾が殆ど無軌道で発射 される上にこの距離だ。かわせない。 武装ニュートラルに変更。FCS停止。右腕部システム操作に移行。右腕部エネルギー供給量標準化。全身センサー機 能縮小。バランサー強化。装甲間リアクティブ機能起動。装甲間リアクティブ機能強化。 右肩装甲被弾。装甲1層脱落。右腕被弾。装甲2層脱落。右胸部装甲被弾。高硬度装甲一枚脱落。 武装パルスライフルに移行。全身センサー強化。異常検査開始。バランサー標準化。装甲間リアクティブ機能停止。 大したダメージじゃない。だが、スラッグガンが発射するのは大質量の徹甲弾だ。破壊力という意味での威力は大し た事は無いが、それでもACの巨体を揺るがす反動を生み出す。案の定こちらは後方へ飛ばされ、予定していたコース から外れてしまった。 これを狙ってたのか、敵はスロットルを強化して加速すると俺の側面を通り過ぎた。 人工脳髄からACセンサー連動、シンパス強化。周囲詳細確認。 やっぱりな。車両を使うつもりか。 シンパス標準化。頭部後方転回。目視。 だが、さすがに敵が増えるのを黙って見ているわけにはいかない。いっその事邪魔な物は全部は壊してしまおうか。 そうも思うが、そんな事をしている好きに光波を頂く訳にもいかない。 武装スラッグガンに移行。全身センサー機能縮小。バランサー強化。装甲間リアクティブ機能起動。装甲間リアクティブ 機能強化。スロットル強化。後方に急加速。 そしてそのまま敵に突進を仕掛ける。更にスラッグガンを発射。反動で後方に衝撃を与える。超重量兵器AC同士の 衝突がどれほど凄まじいものか、それ自身になればよく分かる。まあ、今回はこちらから仕掛けた分、準備もこちらの 方が整っていたはずだ。後方からの衝突とは言え、相手も側面から食らったんだ。大して違いは無ぇだろう。 全身センサー強化。異常検査開始。バランサー標準化。装甲間リアクティブ機能停止。 スロットルを強化した状態で僅かに軌道の鈍っている敵の後方を取る。間抜けな背中が丸見えだ。 武装レーザーキャノンに移行。スロットル標準化。右肩武装エネルギー供給開始。右肩武装エネルギー供給量増加。 バランサー直接操作に移行。 FCSは使わない。ここで光波も良いが、弾道の予測は容易な上にその威力だ。必要以上に警戒するに決まってる。 だからここで光波と思わせ、レーザーによる攻撃だ。 レーザーを照射する。しかし、敵の対応能力は今迄で最高だと判断する。あの衝撃からもう立て直して頭部を転回さ せると砲口から照射点を予測して前方へ加速、こちらから遠ざかりながらレーザーを回避しやがる。こいつは当たる気 は無いようだ。 だが、相手の動きはある程度封じられる。 武装パルスライフルに移行。スロットル強化。右肩武装エネルギー供給停止。バランサーシステム操作に移行。左マニ ピュレーター、システム連動強化。 そのまま加速して戦闘車両に接触する。 接続。システム連動書き換え開始。終了。システム設定開始。終了。左マニピュレーター、システム連動標準化。スロッ トル標準化。遠隔操作システム開放。遠隔操作開始。センサー連動開始。 見事に味方につけたこの車両はタイフーンだ。クローム・オートモバイルの製品で、サスペンション式独立懸架の4輪 駆動で不正地を高速で走り抜ける事が出来る。全身がハニカム装甲で覆われ、武装は6連ガトリング砲。4基のミサイ ル。対AC武装としては少し貧弱だが、こんものだろう。元々は市街戦闘で威力を発揮する兵器だが、贅沢は言えな い。 ハリケーンに搭載されたカメラから得る視覚情報も同時に処理しながら、逃げる敵をパルスレーザーで追撃する。 ハリケーンFCS起動。目標ロック……オン。ECM確認。カウンター、突破。ミサイル4基発射。センサー連動停止。遠 隔操作停止。遠隔操作システム圧縮。自立戦闘モードに移行。 敵はミサイルの攻撃に背を向けての高速退避を止め、ミサイルに向き返ると左胸装甲に設置された迎撃機銃を連射 する。さすがにミサイルはただ回避とはいかないか。 だが、その間にハリアーの位置を察知。敵とは逆方向に加速してそちらを味方につける。が、敵はそれを察知したよ うだ。武装をスラッグガンに切り替え、ミサイルごとこちらへ攻撃を仕掛けた。 さすがにこの距離なら連弾でも見てかわせる。4基のミサイル全てが迎撃されたのを確認しながら、移動点へ飛来す る可能性のある砲弾を避け、ハリアーに再び接触する。敵はこちらの動きをどうにかしたいようだが、ハリケーンが張 る弾幕がそれを妨げていた。あんな攻撃、ACにしてみれば大した事は無いんだろうが、それでも攻撃は受けたくないら しい。 左マニピュレーター、システム連動強化。接続。システム連動書き換え開始。終了。システム設定開始。終了。左マニ ピュレーター、システム連動標準化。遠隔操作システム開放。遠隔操作開始。センサー連動開始。 カオスシステムは指揮機能を持つハンターとそれに従うハリアーからなる。ハリアーだけでの戦闘も可能は可能だ が、戦闘用AIならではの鈍間振りを発揮して、それなりの戦力と知能を持った敵には敵わない程度の脅威しかない。AI 特有のその複雑さもある。そういうわけでこのハリアーも俺からの遠隔操作が必要なわけだが、さすがにこれは楽じゃ ない。ハリケーンはそれこそ玩具だが、ACは身体そのものだ。脳味噌と人工脳髄で身体二つは少しばかり堪える。 だが、AC2機は圧倒的有利に違い無い。薄いとは言え層行型装甲搭載の兵器がそう簡単にくたばるわけは無いか らな。光波の前にはそんな事は関係無いが。 ハリケーンがレーザーで破壊された。だがハリアーとの交換なら良い取引だったと言える。 ハリアー、FCS起動。武装ミサイルランチャーに移行。ロック開始。ECM確認。カウンター。効かない。武装プラズマラ ンチャーに移行。スロットル強化。 FCS起動。右腕部エネルギー供給量増加。スロットル強化。 ハリアーを右へ走らせ、俺は左へ行動を始める。最も簡単で有効な挟み撃ちだ。プラスのシンパス能力、コアと頭部 の前方後方同時視認も単純な火力増加の前には無事と言うわけにはいくまい。 人工脳髄からACセンサー連動、シンパス強化。距離確認。有効射程。ロック、オン。シンパス標準化。スロットル標準 化。 ハリアー、射撃ロック、オン。攻撃。スロットル標準化。 ハリアーへの指示と同時に俺も攻撃を始める。一度に複数の被ロックは処理に大きな負担が掛かるだろう。とは言 え、敵の出方を伺う重要な手がかりであるロックセンサーを切るとも思えん。さて、どう出るか。 出方を伺っているとは言え牽制弾ではないパルスレーザーがようやく着弾する。大したダメージではないが、お互い 大した決定打が無い状態では嬉しいものだ。だが、ハリアーの攻撃は案の定かわされている。さすがにプラズマ兵器 への警戒は強いか。 敵は攻撃目標をハリアーに見据える。落としやすい方から確実に攻撃って魂胆か。 ハリアー、スロットル強化。装甲間リアクティブ機能起動。 そのまま攻撃の回避に専念する。ハリアーは元々ACで言えば軽量二脚に分類され、ブースター出力は有人型よりも 強力だ。それに俺の遠隔操作が加わればそう簡単には撃破出来ん。 武装レーザーキャノンに移行。右腕部エネルギー供給量標準化。肩武装エネルギー供給開始。右肩武装エネルギー 供給量増加。バランサー直接操作に移行。ロック、オン。速射システム開放。エネルギー供給配分変更。右肩武装最 優先。 ハリアーに気を取られている敵背面に通常とは桁違いの速さで連射されるレーザーを照射する。こいつはさすがにか わしきれないはずだ。 熱光が大気を焼き尽くしながら白いACに向かう。ロックを頼りに回避するが、これだけの光速弾だ、かわし切れずに 着弾確認。右半身を中心に光に包まれて装甲が熱を放っている。64枚ある内30枚程度は吹き飛ばしたはずだ。 さすがにジェネレーターのコンデンサ残量が心許無い。元々このレーザーキャノンは軽量小型な砲身で無理矢理高 出力レーザーを連射するものだ。小型な分レーザー生成のエネルギーロスが大きく、ジェネレーターの負担もデカイ。 どれだけ俺が節電に努めてもアレだけ連射すれば無理も無いか。 武装スラッグガンに移行。右肩武装エネルギー供給停止。バランサーシステム操作に移行。エネルギー供給配分標準 化。連射システム圧縮。ロック、オン。被ロック確認。左方向。 何だ!? ACはあっちでハリアーの相手を、いや、新手か。 人工脳髄からACセンサー連動、シンパス強化。左方向200。ミサイルランチャー確認。シンパス標準化。 頭部を回して確認する。そこにはランチャーを敵方向に向けるためだけ砲台と剥き出しの巨大なミサイル、そしていく つのミサイルを搭載しているか分からないランチャーが月の明かりで金属光沢を放っている。そして白い煙を吐き出し ながら金属が接近する。畜生。いつの間に、こんな。 ECMは間に合わない。 迎撃機銃直接操作に移行。迎撃開始。 その間敵はこちらの注意が反れたと判断したんだろう。光波での攻撃に切り替えやがった。悔しいがその通りだ。ハ リアーを後退させながらミサイル攻撃させようにもこいつはECMのかけ方が間違い無く俺より上手い。プラズマランチ ャーでの牽制はエネルギーの消耗を考えれば自殺行為か。 その間にも次々と吐き出されるミサイルを神経接続された機銃で撃ち落とすが、元々このコアに搭載されている機銃 の可動範囲は狭い。先人に習いリニアガンの連砲弾にミサイルを巻き込みながらランチャーを攻撃する。 ハリアーが遂に光波に捕まる。層行型装甲が一瞬で蒸発、更に吹き飛び下半身が消し飛び、反応が消える。遠隔操 作とは言えノイズが俺の神経を襲い、人工脳髄がダメージを受ける。畜生、全身センサーが混乱しやがる。 無反応ライン、接続中断。新規接続開始。 ハリアー、エネルギーノンカウントライン切断。スロットル停止。装甲間リアクティブ機能停止。エネルギー供給配分変 更。ライン、切断。ジェネレーター、高速化。露点、確認。 センサー連動切断。遠隔操作停止。遠隔操作システム圧縮。 ACの爆発は他のどの兵器よりもずっと派手である事は有名だ。その性質上破壊がジェネレーターにまで達する機会 は少ないが、一度暴走が始まればその爆発力は並みの爆弾じゃあ比較出来ない。特にダメージの少ない状態で爆発 すればどうなるか。俺にも分からん。 そしてそれが今分かる。ハリアーのジェネレーターに暴走を働きかけ、今まさに爆発した。重装甲が内側から弾け飛 び、その内側から溢れた高エネルギーが大気と反応、一気に膨張させた。周囲の大気のうねりが一気に激流に変わ り、荒れた地面が溶解を始めた。その大爆発を間近に受け、白い超重量兵器もさすがに吹き飛ぶ。 衝撃で一時遠隔操作に不具合が出たのか、ミサイルの動きが機械的なものに変わった。こいつならかわせる。プラ スの放つミサイルはとにかくしつこいからな。 ECM開始。 だがもう脅威じゃない。 すでに放たれたミサイルをかわし、ECMで追随が来ない事を確認する。不完全なカウンターを俺の人工脳髄が瞬く 間に跳ね返し、距離を確認する。 左腕部エネルギー供給強化。ショックリコイルシステム開放。ブレード、プラズマ照射高速化、レーザー出力強化。左腕 部機動直接操作に移行。プログラム連続変換。光波照射。 ランチャーを破壊する。光に包まれ、爆点はおよそ19。まだまだ残ってたか。それが全部遠隔照準で発射されたらと 思うと面倒極まりない。 左腕部エネルギー供給標準化。ショックリコイルシステム圧縮。ブレード、プラズマ照射標準化、レーザー出力標準化。 左腕部機動システム操作に移行。プログラム連続変換停止。ECM停止。スロットル強化。 ランチャーの爆炎を背に受けて、もう一方の巨大な爆炎に向けて加速する。足元のセンサーが荒野の地下に水脈が ある事を伝えるが、これは乗っているのが俺で無ければ分かるまい。 FCS停止。バランサー直接操作に移行。 スラッグガンを爆炎に揉まれる敵に発射する。一度に6発発射される大質量徹甲弾が見事に直撃する。装甲が剥が れ落ち、半粉末硬化装甲が弾け飛ぶ。 ダメージは敵の方が大きい。有利なのも俺だ。 スロットル標準化。 コンデンサ容量が回復したのを確認する。敵はさっきの衝撃を逆に利用して空中で一回転して着地する。だが、足元 はその衝撃とACの超重量で粉砕された土が舞い上がり、衝撃を吸収し切れなかった事を示している。 左腕部エネルギー供給強化。ショックリコイルシステム開放。ブレード、プラズマ照射高速化、レーザー出力強化。左腕 部機動直接操作に移行。プログラム連続変換。光波照射。 その間に狙い済ました光波を連続で放つ。舞い上がった土塊が邪魔だが、殆ど密着しているようなこの状態ならその 威力はしっかりと伝わるだろう。 だが目論見は外れ、迎撃機銃が吐き出すほんの小さいな弾丸が光波に触れた途端、その高エネルギーはその場で 炸裂し、周囲を蒸散させた。 光波の弱みは貫通力を持たない事だ。大気程度ならともかく、あんな弾丸でも、石ころ程度でもそのエネルギーの全 てを発散させる。強力には違わないが、それなりの対抗策もあるらしい。 左腕部エネルギー供給標準化。ショックリコイルシステム圧縮。ブレード、プラズマ照射標準化、レーザー出力標準化。 左腕部機動システム操作に移行。プログラム連続変換停止。武装パルスライフルに変更。右腕部機動直接操作に移 行。右腕部エネルギー供給量増加。 あちらも武器をパルスライフルに切り替え、互いにレーザーを撃ち合いながら接近する。 装甲間リアクティブ機能起動。 さすがにレーザーのかわせる距離でなくなったため装甲を強化する。光が装甲を溶かす度にACが痛覚を俺に伝え る。大したもんじゃない。パルスレーザーは半粉末硬化装甲との相性が最悪だからな。それに装甲間リアクティブが加 われば致命傷には繋がり難い。 被ロック確認。 FCSを起動したか。攻撃射角を予測出来てもこの距離での機械予測はプラスのそれ以上だ。攻撃すると分かりきっ てる状況ならFCS起動は正解か。 スロットル強化。 後退して、FCSの本当の意味で有効な距離から逃げる、がすぐさま被ロック反応は消え、敵はスラッグガンを持ち上 げた。はめられたか。 右腕部エネルギー供給量標準化。装甲間リアクティブ機能強化。 かわし切れない。発射された6発の砲弾のうち3発が直撃する。右肩に受けた砲弾は装甲が跳ね返したが、衝撃が 関節にダメージを与える。鉄が軋む音がコックピットフレームにも伝わる。 装甲間リアクティブ機能標準化。武装レーザーキャノンに移行。 さっきの連射で使用限界も近いが、使わなけりゃ意味が無い。予測位置に照射しながら周囲を窺う。使えるものは無 いか。車両よりもミサイルランチャーの方が使いやすいが、それだけ的にもなりやすい。本当、同じ機体ってのはやり 難いな。 敵の武装もレーザーキャノンに切り替わり、互いに光の弾幕を張る。たかだか時速500キロで光をかわすという到底 考えられない事も、発射の時には斜線から外れれば良いという意味では通常の弾丸と同じだ。 気温が上昇している。温度で見る世界が次第に赤くなる。大気の動きが次第に規則性を持たなくなる。僅かにプラズ マイオン化を始めた大気を避けるようにレーザーの応酬を繰り返しながら互いに後退を始める。 互いに致命傷が無い状態で、無駄弾を撃ち合っていてもしょうがねぇ。 武装スラッグガンに移行。バランサー直接操作に移行。人工脳髄からACセンサー連動、シンパス強化。周囲確認。シ ンパス標準化。 辺りに使えそうなものは無い。今までの行動経路を記憶したマップに重ね合わせると初期位置から随分離れていると 分かる。そして敵後方にはミサイルランチャー、か。誘導されたか。 ECM開始。システム干渉確認。 畜生、突破された。どうやら情報処理関係ではあちらの方が上手のようだ。兵器への接続速度と言い、ECMと言い、 こういう戦いに慣れてるんじゃないかと疑いたくもなる。だとしたら不利なのは俺か。それとも元からあちらの方が資質 が上と言う事か。 どちらでも構わない。戦えればそれで良い。 もちろん最後に勝つのは、俺だ。 前方で大量のミサイルが吐き出される。白煙が前方を埋め尽くし、通常視覚では判別が難しい。 迎撃機銃直接操作に移行。 迎撃機銃と共に砲弾をミサイルの塊に撃ち出す。だが、案の定ミサイルは弾丸一発にも反応して散開する。やり難い ったらないな。 スロットル強化。 ミサイルの群れに突進する。 下手にかわそうとしても直接操作されたミサイルはしつこく追いかけてくる。だが、その相対速度を考えればかわした ミサイルはもう戻ってこない可能性が高い。何よりランチャーをさっさと始末したいからな。 人工脳髄からACセンサー連動、シンパス強化。 知覚を強化してミサイルの網を潜る。ECMを発信しながら、しかし意識がそっちに回らない。瞬く間に突破され、ミサ イルはその密度を濃くして、次々と襲い掛かる。だが近距離なら迎撃機銃はかわせねぇ。目の前で次々に爆発が起こ り、破片が装甲を叩く。 爆炎を突っ切り、ランチャーが姿を現す。黒光りする金属の塊を俺のセンサーは確かに知覚するが、もう一つの大質 量も同時に知覚する。ほぼ、真上。まったく、本当に小細工が好きな奴だ。 スロットル開放。 瞬間的にだが高速で加速、その場を離脱。 スロットル標準化。左腕部エネルギー供給強化。ショックリコイルシステム開放。ブレード、プラズマ照射高速化、レーザ ー出力強化。左腕部機動直接操作に移行。プログラム連続変換。 そして光波をランチャーに向け照射する。固定砲台だ。かわせるわけも無い、が、次の瞬間には横からミサイルが割 り込みランチャーを光波から守った。 予定外に展開に驚く間も無く、上空の敵は後方へ回り込む。頭部を後方へ回し、前方はコアの内臓カメラで同時に視 覚する。 前方では光波が発散させた高エネルギーがランチャーを守るミサイルを次々と爆発させ、後方では白いACがパルス ライフルを直接標準でこちらに向けている。見事に挟み撃ちだ。だが、あちらがシステム制御が上ならこっちは実力が 上でないと釣り合わん。 武装、パルスライフルに移行。右腕部機動直接操作に移行。バランサーシステム制御に移行。 右腕をそのまま後方へ向け、レーザーでACを牽制しながら、ランチャーに向けて光波を照射し続ける。 レーザーの牽制にさすがに着弾は避けて回避行動に移るか、左右に機体を振りながらの動きから、パルスレーザー の攻撃を仕掛けてくる。装甲の薄い背面への被弾はまずい、がこのまま前後を入れ替えるのは少々キツイ。かと言っ て意識の割り振りが上手くいかない今、背面からのレーザーはかわしきれるもんじゃない。 前方で一際激しい爆発が起こる。おそらくランチャーが破壊されたんだろうが、高密度の爆炎とそれの出す情報ノイ ズのせいで知覚が通らない。おかげで破壊が確認出来ない、が破壊したと仮定、回した右腕を戻しながら転回する。だ が、間に合わず、転回中に右肩に高出力レーザーが二回着弾する。 当たり所が悪かった。今までのダメージもあり装甲が全て貫通され、右肩のエネルギーラインが爆発する。俺のACが 大きく揺さぶられ、右腕を失ったACは不可解な情報ノイズを俺の脳髄に流し込む。その度に遮断不可能な不快感が 俺を襲う。 人工脳髄からのACセンサー連動停止。シンパス停止。ACセンサー停止。 センサーを止めて情報ノイズを処理する。全身の計算神経系に潜り込んだ不完全なシステムを次々に削除し、欠け た部分を未然に用意したシステムで埋め合わせる。 左腕部エネルギー供給標準化。エラー。左腕部エネルギー供給標準化。ショックリコイルシステム圧縮。ブレード、プラ ズマ照射標準化、レーザー出力標準化。左腕部機動システム操作に移行。プログラム連続変換停止。エラー。プログ ラム連続変換停止。無反応ライン、接続中断。エネルギーノンカウントライン切断。パルスライフルシステム、削除。停 止システム、再起動開始。 後方へ下がる。今の状態ではまず勝ち目は無いし、後方へ下がればまだ武器もあるだろう。何より、コンデンサを回 復させなけりゃまともに動かせやしない。 途端、左から強い衝撃。畜生、センサーもシンパスも止めてるからはっきりはしねぇがミサイルか。 バランサーシステム異常。エラー。 続けての側面衝撃にバランサーシステムに誤差が生じる。 バランサー直接制御に移行。 立て直すが、衝撃自体はどうしようもない。機動力が停止している間に更にスラッグガンの追撃を受ける。回避行動 は間に合ったがそれでも2発の砲弾が右脚装甲を叩き、装甲を弾けさせた。 ACセンサー始動。ACセンサー連動、シンパス始動。 一気に精神が拡張される。周囲で対流する大気の流れ、僅かな起伏、イオンの動きさえ知覚する。だが、同時に俺 のとって不利な数値も次々に弾き出される。 あちこちの装甲がやられてる。いつの間にか無傷の部分の方が少なくなってるかも知れん。一応内臓ダメージは殆ど 無いが、ジェネレーターは確実に弱体化を始めてる。右腕をもってかれた時はオイルと回収用のエネルギーがごっそり 逝った。ブースターの出力もかなり落ちてきてる。 武装、スラッグガンに移行。 レーザーキャノンの連続使用は難しい。そもそも使用回数は残り20回程度。一度撃ちっ放したらそれが終わりだ。 パルスレーザーが装甲を掠める。まるで見せ付けられるように連射される光線をかわしながら、スラッグガンで反撃 する。6発がほぼ撒き散らされるように発射されるものだが、散らばる範囲はおおよそ45度。その射角から外れてしま えばもちろん当たらない。敵もそれを十分理解してるんだろう。かわすかわす。 その間に放たれるレーザーが装甲をちりちりと溶かしていく。畜生。物理的な問題が出始めたか、ブースター出力を 一定に出来ねぇ。 ノズル保護電圧変更。出力110。 気休め程度にノズルを強化するが、それほど効果は無いだろう。実際出力は安定せず、かと言ってこれ以上電圧を 上げてもエネルギーを喰うだけだ。 ACセンサー連動、シンパス強化。周囲確認。後方。ミサイルランチャー確認。シンパス標準化。武装レーザーキャノン に移行。右肩部エネルギー供給量低減化。 FCSを使わず、レーザーの弾幕を扇状に撒き散らす。レーザーの回避は発射角の予測によってしか出来ない。その ためこのX角を埋め尽くす攻撃をかわすのに敵はY軸、上に逃げるしかない。案の定敵はブーストジャンプで射角から 逃れ、パルスレーザーの攻撃を続ける。 武装スラッグガンに移行。 だが、それくらいなら食らってやろう。すでに予測していた地点に砲口を向け、発射する。 広空間をカバーする6発の砲弾は、空中では避け難い。ある程度動きが予想されれば更にな。予想通り、かわしきれ ずに2発の砲弾が命中したようだ。 その間に発射の衝撃も利用して後方へ加速、ミサイルランチャーに接近する。 左マニピュレーター、システム連動強化。接続。システム連動書き換え開始。終了。システム設定開始。終了。左マニ ピュレーター、システム連動標準化。遠隔操作システム開放。遠隔操作開始。 ミサイルランチャー、FCS起動。ロック開始。ECM確認。カウンター。突破出来ない。 構うか。ミサイルポッドに搭載されている初弾、それをロック無しで全て開放する。白煙を吐き出しながら、変則的な軌 道を描きながらも音速でただ、直進する。全てで8基。連動したシステムステータスから、残弾は64基だと分かる。随 分な量だ。おそらく拠点防衛クラスのものであろう事は想像出来る。 推進操作開始。 推進操作開始。 推進操作開始。 推進操作開始。 推進操作開始。 推進操作開始。 推進操作開始。 推進操作開始。 ランチャー経由で発射されたミサイルを操作する。その間にもECMとカウンターの競り合いは続いている。 ミサイルに反応して敵が回避行動に移った。ついさっきまでの俺と同じだな。なら行動もある程度予想出来る。後方 へ下がれば対処法が無くなってしまうだろう。やはり、避けながらの接近しかない。 迎撃機銃の銃口を確認し、その先に存在するミサイルを上空に逃がす。その間に後方へ回り込ませたミサイルを加 速させ、迂回コースを取っていたミサイルを敵に向ける。 スロットル標準化。左腕部エネルギー供給強化。ショックリコイルシステム開放。ブレード、プラズマ照射高速化、レーザ ー出力強化。左腕部機動直接操作に移行。プログラム連続変換。装甲間リアクティブ機能停止。スロットル低下。 そこへ光波を照射する。まともな反撃も出来ない状態だ。動きを止めながらでも十分だ。まとわりつかせているミサイ ルに命中しても、発散したエネルギーが動きを止めるだろう。 ECM。突破。FCSロック、オン。 更にロックによって照準されたミサイルを片っ端から発射させる。通常視界は殆ど白煙で包まれた。一時的に予測視 界に切り替える。 敵は確実にこちらに向かってくる。ミサイルも光波も見事にかわしながら。だが、一度破られたECMはもはや無力 だ。もうECMコードを新しく作成する余裕も無いだろう。時折ランチャーに向けて照射される光波も、敵に習いミサイル をぶつけて相殺させてもらう。 スロットル標準化。 通常視界に切り替え、ランチャーから離れる。コンデンサ容量は殆ど回復した。出力自体はまだ安定してはくれない が、これなら十分戦える。 狙うは敵後方。セオリー通りの挟み撃ちだ。 左腕部エネルギー供給標準化。ショックリコイルシステム圧縮。ブレード、プラズマ照射標準化、レーザー出力標準化。 左腕部機動システム操作に移行。プログラム連続変換停止。FCS起動。武装、レーザーキャノンに移行。ロック、オ ン。 推進操作開始。 推進操作開始。 レーザーキャノンを発射しながら、2基のミサイルに目を向ける。それは敵が潜るようにして避けようとしている連なっ た弾頭だ。その2基に干渉し、推進を下方向に向ける。狙い通りそれはさながらフォークボールのように進行方向を捻 じ曲げ、敵の右肩、頭部に着弾。動きを止めた。 ……フォークボールってのは何だ? まあいい。余計な思考は行動を遅くする。 酸素生成ナノマシン活性化。 右肩武装エネルギー供給量増加。バランサー直接操作に移行。ロック、オン。速射システム開放。エネルギー供給配 分変更。右肩武装最優先。FCS停止。 動きを止め、ACに発射体制をとらせる。この方が負担が小さい。ACにとっても、俺にとってもな。 残された予想発射可能回数は23回。先程出力を抑えて9回使ったからもう少しは余裕はあるか。視界を絞り、発射 を始める。 レーザーキャノンのシステムに介入し、企業の定めた限界を超えて光を吐き出す。動きの止まっている敵に向かった 光は次々と装甲を焼き尽くし、頭部を吹き飛ばした。次に右胸部装甲を蒸発させ、レーザーキャノンは遂に反応を示さ なくなる。レンズが摩耗したか。 武装スラッグガンに移行。右肩武装エネルギー供給停止。エネルギー供給配分標準化。連射システム圧縮。スロットル 標準化。右肩武装、破棄命令。レーザーキャノン、システム削除。 後方で、武装が脱落する音がした。それと同時に不必要な情報が無くなり、頭がすっきりする。頭と言ってもそれがA Cのものか、俺のものかはハッキリしないが。 スロットル強化。 動きの鈍っている間に砲弾を発射しながら一気に距離を詰める。その砲弾はかわされたものの、その先の予測位置 にミサイルを運ぶ。そのミサイルに感づき、先程までの推進を打ち消しながら、ミサイルを回避し続ける。構わずミサイ ルを更に発射、遂に残弾が尽きる。 センサー連動切断。遠隔操作停止。遠隔操作システム圧縮。 連動システムを削除し、宙に残されたミサイルはただ敵を追う存在に変わる。これでは当たらないだろう。だが、動か ずにかわせるものでもない。 再び砲撃。本当の意味で狙う事は出来ない連射砲弾は6つの光を描いて敵に飛来、敵は高速で上昇しそれをかわす とそのまま上昇を続けた。ミサイルは推進力を失い自爆し、爆炎がその推進光を照らした。 アレだけ激しい動きの後の上昇だ。コンデンサは残り少ない。使い武装はスラッグガンだと容易に予想出来る。案の 定上空から撃ち下ろされた砲弾をかわし、スラッグガンを撃ち返す。やはり機動力が落ちていたか、4発が着弾、空中 で大きく姿勢を崩した。 装甲間リアクティブ機能起動。装甲間リアクティブ機能強化。 こちらも上昇し、すぐさま抜き去ると推進方向を敵に向け、体当たりを加えた。センサーが強烈な衝撃を探知するが、 もちろん予期していたためノイズは発生させない。 慣性緩和機能の働いていないコックピットの中は喧しく揺れる。あちこちの電子機器が物理的な悲鳴を上げているの が知覚出来た。だが、衝突とは言え跳ね飛ばされたのは敵だ。ブースターで姿勢を安定させながら、スラッグガンを撃 ち下ろす。 連射砲弾が全弾直撃、遂に敵は機動を止め落下を始めた。断続的に推進される推進光も虚しいだけだ。花火のよう に飛び散る装甲と共に、地面に激突。圧倒的な衝撃で構造の脆くなった大地が弾けて黒い粉塵を巻き上げた。 やはり俺に勝る奴など存在しなかった。こいつも今まで戦った奴の中ではまあまあだったが、大したもんじゃない。次 の攻撃で勝敗は決し、俺は勝つ。その先にあるのは生まれた時からずっと欲していた自由だ。 自由。俺は地上を連想しようとする。 地上。大地。雲。空。鳥。鳥、鳥、鳥。 不可解な映像が俺の神経に出力されている。地下都市だ。俺の見た事の無い生きた地下都市。俺の見た事の無い 普通の人間。俺の見た事の無い兵器以外の乗り物。そして、鏡に映る見た事の無い人間。 ここはコックピットだ。いや、コックピットには違いないが兵器のような大袈裟なもんじゃない。円形のハンドル。車とい うものだろうか。それが地下の都市を何か、一定の規則に従って流れるように走っている。いや、走らせているのだ。 視界がやや暗い。一体どうしたのだろうか。それともこれは俺の視界ではないのか。少なくともこの視界を支配してい るのは俺ではなく、俺ではない誰かだ。 その誰かが人気の多い繁華街から郊外辺りにまで車を進ませると、人通りの殆ど無い寂しげな裏路地に車を止め た。空、いや、天井では集光システムが不完全なのか、不十分な暗い光が降り注ぎ、足元に薄い影を作ってる。 この足は俺のものじゃない。だが、車から降りたその歩みに連動して俺の視界も移動してる。 不思議な事にこの何者かの感覚は視覚と聴覚だけだ。感触、嗅覚、おそらく味覚も伝わってこない。こいつは、なん だ? 記憶の反復に似ているが、それとは違う気がする。 向かう先に古びれた看板が見えた。木製の板に白く下地がされ、そこに黒く"診察所"、とだけあった。こいつが通って るところだろうか。 いつの間にか今は、俺は知らないはずの事を知っている事に気がついた。ここには見覚えがある。 その看板の下には小豆色の合成皮をなめしたドアがあり、更にその横には壁にもたれかかっている男がいた。こちら に気がつき俯かせていた顔を上げ、微笑んで見せる。見た目は30前程度だが、真っ白な髪がそいつを老けて見せ た。 「またお前か」 すぐ間近で声がする。白髪の男の声じゃない。こいつの声だ。 「またとは酷い言われようだ」 白髪の男は肩をすくめてそう言った。その声は意外なほど若い。あの髪は染めてあるのか? 「で、なんだ」 「僕もお世話になったからね。祈りの一つくらい、な」 「物好きだな」 「人の生き死にに好きも嫌いも無いだろう?」 こいつは白髪の言葉を無視すると車の後ろに回り、トラックを開けた。一瞬車に映ったその顔にやはり見覚えは無 い。トランクの中には白いものいっぱいにがあった。植物。これが、花ってやつだろうか。 「そういう君こそ物好きだな。今時花なんていくらしたんだい?」 「俺の親みたいなもんだ。これくれぇしたって良いだろ」 「そうか。そうらしいね。ただ、少し問題がある」 「問題だ?」 「デュライが消えた」 デュライ。 その言葉と共に情報ノイズが俺の全身を撃ち抜いた。 映像がACのものに再変換され、そこがまだ空中だと分かる。畜生。どれだけの間、俺は。 敵はまだ真下で大人しくしている。さっさと決めねぇと次は戻ってこれねぇ気がする。そのまま殺されても、逝っちまっ たままになるだけだ。 左腕部エネルギー供給強化。エラー。左腕部エネルギー供給強化。エラー。左腕部エネルギー供給強化。エラー。 何だ!? エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラ ー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エ ラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。エラー。 エラー。エラー。 手元で、何が破裂したような音がした。そして次の瞬間両手が熱く、次に冷たくなった。操縦桿を握っているはずの両 手を見る。すると、両腕の肘から下が骨を残して破裂していた。血肉が舞っている。コックピット中にそれがへばりつい ている。 俺は叫んでいた。神経の情報量の殆どが痛覚に支配されている。畜生。遮断出来ない。 操作不能に陥ったACはそのまま重量に従って落下を始めた。ブースターを噴かそうにも、痛覚が通信の邪魔をす る。 畜生! 重力に抗えずに墜落。せめてそいつを巻き込めればよかったが、敵は寸でで避けやがった。 墜落の衝撃が全身を揺さぶる。辺りが拉げる音を感じる。そして、痛覚はそのままに俺の脳髄は覚醒する。人工脳 髄からの情報を最小限にACを立ち上げる。そう、俺を。 まだコンデンサが回復し切っていないのか、スラッグガンの攻撃が装甲を叩いた。ACの痛覚ももうどうでもいい。強 化視覚を最大限に発揮し、血の海の中から爆発で吹き飛んだ2本のケーブルを探り上げると、それを口で加えて右腕 の断面に突き刺す。 情報ノイズももう慣れた。それが十分な接続がなされないまま"俺"は動き出した。もう、システムの介入も上手くいか ねぇ。 動かすだけだ。 ブースターを噴出させ、敵に突進を仕掛ける。スロットルの調節なんてものは出来ない。時々噴出しては消え、噴出し ては消え。だが、俺は叫びながら突進していた。 光が俺を捕らえた。あちこちが焼ける。溶ける。蒸発する。だが、俺は敵に向かって走っていた。いや、俺が追いかけ ているのは本当に敵なのか、よく分からない。 俺は狂い掛けているのか。 残された左手が遂に敵の頭部を捉える。親指にあたる部分が保護バイザーを砕き、守られていた光学カメラに突き 刺さった。感触がある。あるはずの無い感触が。 そして、俺は光を見た。青い光だ。それが装甲を貫いて、コックピットフレームを照らす。 身体が、消えていくのを俺はしっかりと知覚していた。 まずは両足から、表面が焼け始め、中にあるものが弾けるように飛び散る。それが次第に上に向かってくる。死が、 迫ってくる。人工の臓器が露出し、熱に耐えかねて内側から風船のように破裂する。そしてそれは上半身全部を飲み 込み、遂に首にまで迫る。そして、次第に消えていく"俺"の中で最後にこの言葉が脳髄に出力された。 デュライ この車に乗るのは2度目だが、時代遅れな機種である事は確かな機械の知識を持ち合わせているジーノにはすぐに 分かった。今時ナビゲートシステムも取り付けていないのは、古いというよりも取り外したとしか思えない。今ならほぼ、 全ての車が標準装備しているはずだ。 この車はエムロードの火星時代のものだ。今では見る事の無いエムロード火星支社のロゴが後部座席から見えるダ ッシュボードのカバーに描かれている。 「トゥワイフさん」 「ニコライで良いよ。なんだい?」 彼女が声をかけると運転手のニコライは気軽に応えた。どういうわけか額には冷却シートが張られている。車内にか けられている冷房は寒いほどで、送風が彼の短い前髪を揺らしていた。 このニコライという男、元々レイヴンだと本人から知らされた。直接的にそうであるとは一度も言われてはいないが、 きっとそうなのだろう。だが今では医者で、それに決して悪い人間ではないのは分かっている。 「この車……」 そこまで言ってどう尋ねれば良いのか分からなくなってしまった。いつ買ったのか。それともいつから乗り始めたの か。言いよどんでいる間にニコライは鏡の向こうで微笑み、応える。 「兄の形見なんだ。買ったのは15年位前かな。メンテはしているが、プロも流石に限界だって言っているよ。形見だし、 気に入っているし、大事にはしたいんだが、どうもね」 そして振り返ると座り心地は確かに悪い、と冗談を言うのだ。 「流石に換え時かなとは思うが、どうしても踏ん切りがつかない。どうしたものだろうね」 ナビゲートシステムがついていない事についても尋ねようと思ったが、ついつい面倒に思ってしまった。ジーノは応え ず、目線を窓の外に移す。電波受信式の腕時計で見る時間はまだ6時にはいったばかりだ。まだ日は明るく、建物の 向こうがオレンジ色に染まっていた。 そう言えばここのところ車に乗るような事は無かった気がする。どこか遠出をするような事があればいつもロジャーの 運転するバイクに乗っていた。それ以外ではバスや、叔父の運転する車程度だろうか。なんにしても自分自身には歩く 以外に移動手段が無いのは本当に困る事だ。せめて自転車くらい、と思い立っては練習をするのだがその度に挫折す るのだ。 「君は脚は無いのかい? もう免許も取れるだろうし、自転車くらいあるだろう?」 まさか自転車に乗れないなどとは想像も出来ないのだろう、彼は何と無しに尋ねてきた。そのついでのように彼は日 除けを下ろした。 「まあ……」 さすがにそうとは言えず、ジーノは肯定の返事だけをした。彼がその事をとやかく言うとは思えないが、下手な事を知 られたくもない。それだけで、視線を外へ送り続けた。 後数分もすれば自宅に着くが、そこから連想されるのは一人の少年の顔だった。 名前はナイツと言うらしい。明らかに自分よりも歳は下だと言うのにレイヴンであると言う。正直に言えば信じられない のだが、あの黒いカードは偽装できる物ではないし、そう簡単に盗みだせる物でもない。それにあんな子供がレイヴン だと偽ったところで、どんなメリットがあると言うのだろう。考えれば考えるほど疑問が浮かぶ。そして何より、自分があ の顔を見た瞬間に何かを思い出したのだ。気にするなと言う方が無理だ。 しばらくの思案の後にジーノはルームミラーに移る医者の顔を見た。まだ尋ねてはいないがなぜか額に張られた冷却 シートが酷く気になる。 尋ねても良いものだろうか。元々レイヴンであった事はどうにも隠しているようだし、自分にそれを教えたのも何かの 考えがあってだろう。それに言い触らすにはその内容はジョークにする事も出来ない。だが、ACのガレージに住んでい てもレイヴンについて知る事などたかが知れているし、彼の方がよく知っているのは確実に思える。 「トゥワイフさん」 またも、どう訪ねるかを考えきらずにジーノは声をかけてしまった。親しくない人と話すのは苦手だと言うのに思慮が 浅い自分をジーノは軽く呪う。 「ニコライで良いよ。なんだい」 先程と同じ応答にニコライはやや笑いを漏らし、 「ああ、すまない。なんだい?」 と聞き直した。 ええと、とジーノは言葉を濁らせ、しばらくの間をおいて尋ね直した。 「子供でもレイヴンになれたりするんですか?」 その言葉にニコライは僅かに顔をしかめた。似たような言葉は前にも聞いた事がある。そしてそう言ったのはちょうど ジーノと同じような少女だった。ニコライはもちろんそんな事を聞かれて助言をするような事は無い。昔も、もちろん今も だ。 「君がもしレイヴンになろうと思ってるなら僕は黙る」 かつて同じような質問をした少女はもちろん笑いながら冗談だと言った。まあ当然だろう。 「違います。あたしじゃなくて」 慌てて否定した後、ジーノは説明を始めた。 「えっと、今日から新しいレイヴンがうちにAC預ける事になったんですけど、そのレイヴンがあたしより小さくて」 「小さい? 物理的にかい? それとも年齢的に?」 物理的、という言葉にジーノは僅かに首をかしげ、小さく両方、と答えた。 「12歳くらいかな。それくらいの」 そしてそう付け加えた。だが、見覚えがある、とはさすがに言うわけにはいかなかった。これは自分の記憶の問題で あるし、何より変に勘ぐられたくはない。それに単なる勘違いである可能性も十分考えられる。むしろ、そちらの方がず っと現実的のようにも思える。ナイツと言うレイヴンは自分の事をしている様子など無かったのだ。 ジーノがふと、思考に耽っているとニコライがしばらくの間を置いて口を開いた。 「レイヴンになるのに条件は無いんだよ。ただ、試験で生き残ればそれで商談成立。レイヴンだ。それこそ子供でも老 人でも関係無い。試験さえ受ける事が出来れば死刑囚でも関係無いんだ。だから君の言う彼が黒いカードを持ってレイ ヴンを名乗るのならきっとレイヴンなんだろう」 目の前の信号はまだ青だ。だが、ニコライは思う事があるのかゆっくりと速度を落し、そのうち信号が空と同じ色に変 わる。そのまま速度はどんどん緩められ、余裕を持って車は停車した。 「そうか。でもそれは君や僕がどうこう言う問題じゃないよ。彼にも何か訳があるんだ」 そして全ての考えを否定するようにそう言い放ち、ガラス越しに射す赤い光を睨み返した。 「雲が黒い」 ニコライは遠く、沈み行く太陽に話しかけるように呟いた。実質的な光量が落ちているため雲はその反面を黒く濁らせ ている。それが幾重にも積み重なり、一足早くそこにだけ夜が舞い降りているようにも見えた。 「アンモニアは目に悪い。恥ずかしながら今日身を持って知った」 ジーノが首を傾げるのにも構わず、彼は独り言を繰り返した。 車内を沈黙が支配し、高齢のこの車だけは元気にエンジン音を繰り返している。自分はまだまだ走れると彼に伝えて いるようにジーノには思えた。だが、幼稚な発想だと一人、恥ずかしくなった。 信号が青を示し、しかしその前を自転車に乗った人がすばやく横切っていった。メッセンジャーか何かだろうか。何に しても危ないな、とニコライは呟き、改めて発車させた。 「君はレイヴンになりたいと思った事はあるかい?」 今度は独り言とは違う言葉をニコライは後部座席の少女に投げかけた。僅かに後ろを覗き込むような仕草を見せる が、すぐに前へと向き返る。 「まさか」 ジーノは即答する。レイヴンへの復讐のためにレイヴンになると言う話は良く聞くが、ガレージに住む彼女には分かっ ていた。容易い事ではない。 嫌と言うほど見てきた。出かける時には綺麗に整備されていた鋼の巨人が帰ってきた時には使えるパーツだけに分 解されている様子を。初めの頃は使えなくなったACをリサイクルにでも出すのだろうかと考えていたが、ふと、覗いてし まった時がある。後方部分が殆ど抉れたコアから取り出されたコックピットフレームの中を。そこにはペンキを撒き散ら したように赤いものがこべりついていた。 その後の事は覚えていない。叔父の話によると酷く取り乱してしばらく何も口にしようとはしなかったそうだ。4年前の 話だ。 その後も残骸となったACが運ばれる事は何度もあったが、叔父はそれに関してはもう自分に関わらせないようにし た。今でもそれは変わらない。レイヴンになると言う事はまともな死に方は出来なくなるという事だ。その事はしっかりと 理解している。自分にはレイヴンになってまで復讐を果たす覚悟は無かった。 「それが良い。レイヴンなんてものはまともな人間がなるものじゃない」 車が人通りの少ない一本道に入った。ロジャーはよくここで思うままスピードを出していたものだ。それこそ後ろにジー ノがしがみ付いていようが関係無い。だが、そんな事にも慣れてしまったのはいつごろだろうか。 ニコライの車は規定速度を保ったまま直進を続けた。 このあたりは極めて静かだ。危険な施設、つまりガレージが近くにあるのだから人も近寄りがたくはないだろう。実 際、この辺りは倉庫や工場ばかりで人が来る必要もそれほどない。静かでなくなる時は、多くの場合ガレージが動いて いる時だろう。工場などは完全にオート化されており、騒音対策もなされているため、それに比べればガレージは気ま ぐれに唸る猛獣のようなものだ。 ニコライは少しずつ路肩に寄せながら速度を落とす。そしてガレージに停車すると、その巨大な施設の大きな出入り 口からはその大きさに相応しそうな大きな物音が聞こえた。車内は冷房がかけられているため締め切られている。そ のため音は小さいが、外に出ればさぞ喧しいのだろう。 「焼けた肩を外す音だね。これは大変だ」 ごとり、という音が車内に響き渡った。ジーノの横ではロックスイッチが外れた事を示す赤をになっていた。 「自転車なら中古で20ドル程度だよ。考えてみたらどうだい?」 善意であろうその言葉にジーノは引きつった笑みで答え、ドアを開けた。案の定、予想以上の騒音がジーノの鼓膜を 叩く。慣れる慣れないとは関係無しにうるさいものはうるさい。それ以上に今まで寒いほどだった空間に流れ込むまと わりつくような暑さと湿度は彼女を辟易とさせた。それでも日が落ちかけているのだから少しはマシだと彼女は自分自 身を納得させた。 「それじゃあ」 ニコライは軽く手を振り、ジーノがドアを閉めるとゆっくりと加速してその車は赤く消えていった。 何気なくそれを見送り、シャッターを潜る。最高部までおよそ15Mある巨大兵器用出入り口は、それでも僅かに防音 効果を持っていたようだ。ガレージ内は外で聞いていた以上の騒音で満たされている。ただ、ここまでくると逆に気にす るほどではなくなってくる。彼女にとっては日常の中に取り込まれた音だからだ。 だが、日常の見慣れたものの中に、見慣れないものがあった。休憩用の長椅子に腰をかけ、俯いている少年だ。白 髪は夕日を受け赤毛に見える。 なぜこんな所にいるのだろう。ミッションが終わったのならちょっとした手続きでこんなうるさい所にいる必要は無くなる はずだ。 それとも変な細工をしてこちらが修理費を吊り上げるとでも思い監視しているのだろうか。だとしたら随分と信用が無 いものだ。互いに持ちつ持たれつ、そういうものだというのに。 ガレージに目を向けてみれば白い巨人がそれよりも巨大、と言うよりも大規模な機械に囲まれていた。左腕が外さ れ、アタッチメントポイントから外れなくなってしまったケーブルやジョイントを焼き切ろうとしている。物が物だけに出す 騒音も凄まじい。 しかしニコライは見事にこれを言い当てた。レイヴンだったと言う話は信用して良いだろう。だがそれにしても耳が良 すぎる気もするが。 何人かの整備士が白いACの周りをうろついている。そしてそのACはおそらく戦闘の後だというのに損傷らしい損傷 は見受けられない。シールドが搭載された左腕装甲がやや焼けている程度だろうか。一体どんな依頼を受けたのかは 知らないが、それにしても損傷が少な過ぎる。 ジーノは振り返った。そこには白髪である事以外には見た目普通の少年がいる。だがもし、これが彼の技量による結 果だとすれば、いったい何歳でレイヴンになったというのだろう。 俯いているため顔が見えない。中途半端に伸びた前髪に顔が隠れ、前回の印象をおぼろげにした。 考えてもしょうがない。ジーノはそう結論付けた。下手に考えたところでどうにもならないと先程車の中で決めたのだ。 それに相手はレイヴン。ロジャー同様見た目にはそうは見えないが、その態度はレイヴンのそれだ。見覚えの正体を 知ったところで、自分にとっては憎むべき相手には違いないのだ。 ジーノはもう一度作業している整備士達を見渡し、歩み始めた。 ACの歩行や無限車両の移動にも耐える強化合金製の床は普段は良い足音をたてるのだが、今では騒音のため脚 に振動が伝わるだけだった。金属の吹き抜け階段を登っても同じで、今日はいつもよりは必要以上にやかましく感じ る。更に階段を登りきった後も音が発生している場所に近づいたためか余計にうるさく感じられる。ここしばらくあった 暇な日々が懐かしい。 階段を登ってすぐに目に当たるのはロジャーの部屋だ。あのプレートは表になったまま、変わった様子を見せない。 ジーノは自然とそのドアノブに手を掛けていた。そして次には何をしてるんだと放したが、見えない何かに導かれるよ うに再びドアノブに手を掛けるとドアを引いた。 そこは日の光が射しておらず、窓から覗く赤い光景だけが光源となっていた。薄暗く、赤い部屋。どういうわけかジー ノはその光景を懐かしいと思った。ロジャーはこんな光景を見ていたのだろうか。ここよりもずっと立地条件の良い部屋 に住んでいる彼女はそう思う。 ざっと見渡して目に出来るのは本だ。流石に持ち切れなかったのだろう本が山積みにされている。ジーノはこの本全 てを読み漁っているロジャーの姿を想像して笑った。あまり読書をするイメージは無い上、読んでいる姿をあまり見ても いないから余計に。 何となく机の上に載っている一冊を手に取ってみた。見覚えがある地味な色合いのハードカバー。裏表紙には50cと シールが張られている。このサイズで1ドルもしないとは驚きだ。そう言えば彼によく古本屋に足を運ぶと聞いた事があ った。そこで買い漁っていたのだろう。 ぱらぱらとページを捲る。 主人公は探偵で、とある新型の麻薬の製造元を解明するサスペンスだ。内容にも覚えがある。偶然捲った主人公が ギャングに取り囲まれながらも、爆弾と偽っているウィスキーボトルを片手に大見得をきっているページからその先が気 になり始め、椅子に腰を下ろすとハードカバーから写真が一枚零れ落ちた。 ロジャーの悪い癖だ。写真を枝折代わりにするのはともかく、そのままにしてしまう。しっかりしている彼にしてはらしく ない一面だ。 ジーノは足元に落ちた写真を拾い上げた。これにもやはり見覚えがある。そしてああ、と思い出した。 彼女の誕生日、ロジャーは帰らず、だが彼は帰ってきた。今では遠い昔のように思える。 そう、その時も偶然この写真を見た。子供時代のロジャーとその両親。 「えっ?」 そしてそれを見た時、ジーノは思わず声を出してしまった。心臓が高鳴っているのが分かる。 何度も、何度も確認する。そんなはずは無いと。だが一度そう見てしまうと、そうとしか見えない。 写真の中央で微笑む少年とナイツという少年は髪と目の色さえ違えど、正に瓜二つなのだ。 世界が赤い。そして俺はその赤を踏み潰すように歩み続ける。 ここはどこだ? 見覚えが無い。辺りは赤く着色されたおかげで現実味を失っている。ここが夢の中だと言われたら 信じてしまいそうだ。夢の中だと言っても別に空を飛ぼうとは思わない。飛ぶなんて事はヘリコプターに任せれば良い。 苛々する。湿気が身体にまとわりつき、高温が細胞を侵食する。蒸発しちまいそうだ。 ここはどこだ? 見覚えが無い。辺りはコンクリートが焼けた臭いで満たされ、鼻腔が麻痺しそうだ。そのまま脳髄に まで達して、そこまでおかしくなりそうになる。 いや、既におかしいのか。 赤、赤、赤、空間が赤い。思い出す。 だが、そこで思考を停止する。思い出すな。思い出したら、その瞬間に俺は俺でなくなる覚悟をしなくちゃならん。思い 出す事は俺は俺でない事を認める事になる。 そいつは、ごめんだ。 ネオアイザックはオールドアイザックとは逆の性質を持つ。ネオは昼は仕事のために人口が少なくなり、夜はその人 口が戻る。オールドはその逆だ。地下空間の殆どがオフィスか工場、職場だ。人間が住む場所は隅に追いやられてい る。そして、追いやられた人間は地下から這い出した蟻みてぇにあちこちを歩いてる。そして蟻が物珍しげに大男を見 上げる。俺を。どいつもこいつも赤い顔をしてやがる。 赤、赤、赤、全てが赤い。 頭の中で金属音がする。 ガチリ、ガチャ、キィン、ガキィ。 どこからするんだ。この音は。痛い。頭の中に針が入ってる。棘を生やした蛆虫が頭の中を這いずり回ってる。畜生。 今すぐ頭蓋を外して脳味噌を掻き毟りたい気分だ。だがそんな事をしたらまず死ぬ。自制する必要があった。 身体が煮え滾ってる。今すぐにでも何か衝動をぶつける相手を欲しがってる。右腕の筋繊維が硬直を始めた。あの 時失ったはずの腕が神経を張り巡らしている。 あの時。 記憶を遮るように俺は右腕を右の塀に叩きつけた。僅かな痛覚と共に壁のタイルが剥がれ落ち、吹き飛ぶ。俺の前 から歩いてきてた男が女みてぇに叫んでその場に尻餅をついた。こいつの顔も赤い。まるで動物を見るように、人間の 顔もどれも同じようなものに感じてきた。なぜだ? 俺が人間じゃないからか? 止めていた歩みを再開し、再び宛ても無く直進する。後ろで何か叫んでいる声やコンクリートが崩れる音がしているが 50Mも歩くともう遠い出来事になった。あんな事をしたところで、俺の記憶には何も残さない。ただ、一直線上に存在す る大きな過去が煽り立ててくる。俺の存在そのものを。 どこまで歩いたのか、どれほど歩いたのか、ここはどこだ? いつの間にか俺は戻っていた。 巨大な大理石の時計搭は赤い日光を乱反射して周囲を彩っている。そしてその裏側では長い影が不吉な触手を伸 ばしていた。 記憶が甦る。金髪で青い目の女。ここで俺に尋ねた。 もし世界を変えるほどの力があるのなら。 あの時は曖昧だったその言葉に、俺は今でははっきりと答える事が出来る。あらゆる思考を超越して、望むもの。 それは破壊だ。世界を変えるほどの力があるのなら俺は迷わずこの世界の全てを破壊する。今も過去も全てだ。何 も考えなくて済む、何も無い世界。俺はそれを望む。 気がついたら俺は時計搭に拳を振り下ろしていた。金属音とはかけ離れた鈍い音が何度も俺の身体を貫く。 この痛みも、感触も、全て虚像なのか。いや、そんなはずは無い。俺は確かにここに存在している。そう、確信してい るはずなのに、何かが欠けている。俺の存在を決定付ける何かが。 ばしり、と一際大きな音がして大理石が砕け、飛び散った。その拍子にサングラスがずれ落ち、重力に従って、地表 に吸い込まれていった。 とても、とても時間をかけてそれは地面に接触し、音を立てた。 そして遮るものを失った俺の目には赤い光が容赦無く注ぎ込まれる。それが俺に連想させるのは赤い血。俺の流し た、いや撒き散らした血。そして肉片。失われた両腕。死。 感覚が甦る。否定しようとしていたその映像がしっかりと俺の過去の記憶として覚醒を始め、夢の出来事では片付け る事の出来ない過去が、俺の中で再び活動を始めた。 求めていたはずの過去。探していたはずの過去。 だが、それは。 死の感覚が甦る。足から身体が失われていく感覚。それが、時間をかけて、足から、ゆっくりと頭に上っていく。 俺は叫んでいた。そしてその場にうずくまり、思考を停止しようとする。しかし、出来ない。 プラス、改造人間、怪物。そんな生易しいものではない。遂に俺の思考は認める事の出来ないその一つの答えに到 達してしまった。 俺は、死んだ人間だ。 AC AC
強化人間としての素質を問う機体構成。そのポテンシャルは人間に引き出す事は出来ない。 |